討伐ギルドのある通りからまた少し奥の方へ進み、広めの路地を住宅が多く並ぶ通りへ向かうと、ルスの弟・リアンを預けている保育所があった。入口から中に入った途端、開口一番説教されてしまった。『ご自分で、この時間までと言っていた時間通りに迎えに来て欲しい』と。僕らよりも先に、討伐ギルドの方から伝書鳥が送られていたらしく、深刻な事情があっての大幅な延滞である事は理解しているものの、それでも人手が足りていない現状では連絡無しのまま過度な延滞をされるのは非常に困るのだとか。
(…… まぁ、向こうの言い分も充分理解出来るが、一人寂しく森の中で瀕死にまでなっていた者に対して言う台詞では無いのでは?)
ついそんな事を考えて、すぐにかぶりを振った。僕らしくない考えがふと無意識のうちに浮かんでくるこの感覚は初の経験で、なんだか気味が悪い。
「すみません、すみません!」
何度も頭を下げてルスが平謝りし、延滞料金を支払った。今日は報酬をかなり多く貰えたので痛くも痒くもない額ではあったものの、待ち疲れて眠るリアンを腕に抱えて家に戻ろうとしているこの道中、ルスはずっと凹んだままでいる。
そんな嫁の横で、僕は義弟となったリアンをじっと観察していたのだが…… ルスに取り憑いたおかげで得られた“知識”と、ここ数日分の“記憶”の中にあるリアンの姿と、今目の前に居る彼の容姿とが、どうも違う事が気になった。彼女の認識上のリアンは丸々と太った愛らしい子犬みたいな印象なのだが、実際に彼女の腕の中で眠っているリアンは——
どう見ても、巨狼・フェンリルの赤ちゃんだ。
小さくとも細長い体躯、アイスブルーと白い毛色、隠しきれぬ禍々しいオーラを微弱に纏う点や、狼の様な凛々しい顔立ちは過去に聞き齧った特徴と一致する。
フェンリルはドラゴンとも並ぶ程の希少種で滅多にお目にかかれない。喧嘩別れした旧知の者がドラゴン族だったが、それも随分と昔の話である。
(という事は、ルスはフェンリルの獣人なのか?)
逃走時の彼女の様子を思い出す。通常の狼や犬の獣人ならば納得出来るレベルではあったが、彼女までフェンリルだと仮定するにはあまりに運動能力が低い。奴らは好戦的で肉弾戦が得意な種族のはずだ。だけどルスはヒーラーという職業の者である点を抜きにして考えても、戦闘が得意な様には見えないし、コボルト達から逃げる時に獣化していなかった事を考慮すると、やはり違う気もする。既に得たルスの“知識”だけでは答えが入っておらず、見当もつかない。
「——着いたよ。此処に住んでるの」
ルスの声で顔を少し上げて周囲を軽く見渡した。居住区域の一角、平屋建ての建物が左右に何棟も規則的に並んでおり、奥まった所の中央には二階建ての一軒家が建っている。一軒家の二階にはこの辺り一帯の借家を管理している大家が住み、一階部分は多彩な料理を提供する店になっているらしい。ずらりと並ぶ平屋の建物は全て賃貸物件になっていて、それらに住む料理の苦手な住民達へ格安で食事の提供をしたりもしているのだとか。ちなみに万年金欠状態にあるルスは一度も利用した事がないらしく、味に関する“記憶”も“知識”も持っていない。
「一番奥の、一号室を借りているの」
「へぇ」
大家の住む母屋から一番近い、右奥にある部屋の扉の鍵を開けて室内に入る。ルスが眠るリアンを寝台に寝かせに行く間に、「部屋ん中を見て回っていてもいいか?」と訊いて、探索の了承を得たから今のうちにルスから得ている“記憶”との差異が他にも無いかを確認しておく事にする。
小さな部屋が二部屋と、二人暮らしに丁度いいサイズのリビング、他にはキッチンや風呂・トイレなども完備されていて、これでは家賃が高そうだ。だがここでもヒーラー職は優遇されているのか、ルスはこの部屋を格安で借りているらしい。作りは相当シンプルだけど内装はかなり綺麗だから築年数は一・二年以内ってところか。
(それにしても…… 何にも無い部屋だな)
必要最低限の物しかない殺風景な部屋だ。飾り気一つ無い。移住後すぐに借りているから一年は住んでいるはずなのに、入居して数日しか経っていないと言われても違和感のない室内である。リビングには一応ソファーとダイニングテーブルセット、何ものっていない飾り棚が一つ置いてはいるが、きっとこれらは備え付けの物だろう。
遠慮なく、このまま他の二部屋も順に覗いてみた。それぞれを私室として使っているみたいで、今二人が居るリアンの部屋には大きなベッドが、その横には大型犬向けのペットベッドが置いてある。小さなリアンをペットベッドの方に寝かせ、ルスは優しく背中をトントンッと叩いてやっていた。
ベッドの方はこの先リアンがヒト化した時用に、ペットベッドは獣化時用の物だろう。他にも好きに遊べる様にと大きなぬいぐるみが沢山あったり、噛み倒してボロボロになった骨の形の玩具なども床に転がっている。リアン用の着替えなんかも置いてはいるが、どれも袋に入れたままなので未使用っぽい。リアンはまだヒト化出来ないくらいに幼いから、念の為の用意なのだろう。
次は隣接する部屋を覗いてみた。案の定ルスの私室であったが、こっちの部屋はリビングと同じく殺風景だ。ベッド、服が数枚掛けられたハンガーラック、下着類などを片付けてあるチェストが一つ。化粧台などはなく、綺麗な置物どころか花の一つも飾ってはいない。
部屋は心の投影図とも言える。最低限の物しかない、“個”を全く感じられない空っぽに近い部屋を見ていると妙な既視感を覚えてしまう。
あぁそうか…… 彼女と僕は真逆の性質を持ちながら、何故か根底が似ているのか。
「——お待たせ。ごめんね?帰ってすぐに放置しちゃって」
帰路の道中ずっと眠っていたリアンだったが、どうやら帰宅してペットベッドに寝かせた時に少し目を覚ましてしまった様だ。背を軽く叩いてあやし、再び眠りに入れるまでの間ずっと傍で付き添っていたのだろう。
「平気、平気。お茶を淹れたんだ、飲むだろう?」
ティーポットと茶葉はもちろん僕が勝手に用意した物だ。何処のキッチンから拝借したかは自分でもわかっていないが、殺風景な部屋には全く似合わない派手な花柄がポットに描かれている古風な品である。カップはキッチンにあった子供向けのウサギ柄が描かれた小さなものだ。ピンクと青。きっと姉弟でお揃いにしようと買った物だろう。数少ない、“個”を感じられるカップに紅茶を注ぎ淹れると、ルスはちょっと困った顔になった。
「…… 紅茶?甘い、かな…… これ」
おずおずとカップの中を覗き込んで匂いをルスが嗅いでいる。獣耳があるせいか、その仕草が妙に犬っぽい。
「さぁ?甘いのが好きなら、砂糖もいるか?」
返事を待たず、影を経由して砂糖の入ったシュガーポットも失敬してくる。これも何処の家の物かも知らんが、念の為、全て此処から遥か遠い別の町から取ってきたので盗難被害で訴えられる心配は無いだろう。
「ありがとう!子供舌なもんだから、甘くないと飲めなくって」
ニカッと眩しい笑顔を向けられ、少し体が後ろに引いた。無垢過ぎて苦手な表情だ。今まで取り憑いてきた相手には向けられた事の無いものだからか、胸の奥がモヤモヤする。
「…… ちゃんと少し冷ましてから飲めよ」
「うん、そうするね」
予想通り猫舌であったルスは息を吹きかけながら紅茶をちびちびと飲み始めた。
「あ、そうだ。スキアの寝る場所を考えないとね。いびきの心配がないならリアンの部屋のベッドが空いてはいるけど、一人で休みたいんならワタシのを使ってもいいよ。ワタシはリアンの部屋で寝るか、ソファーで休むかするから」
「何言ってんだ?僕達は『夫婦』なんだぞ?一緒に寝るに決まってるだろ」
会いたいと焦がれるくらいの相手と似た容姿の男と一緒に寝るとなれば、手を繋いだくらいでは無反応だったルスであっても慌てふためくに違いない。頬を真っ赤に染めて、『そ、それは流石に早いんじゃないかな。人前じゃないんだし、夫婦っぽい事に拘る必要は無いよ』と言って拒否し始めるだろう。それをゴリ押しして添い寝してやり、少しづつ僕を意識させ、ゆくゆくは僕無しでは生きられない体にしてやる。そこからスキルの高さを活かしてヒーラー職の最高位である“聖女”にでも持ち上げ、僕の傀儡と化したルスの手で人間達側の情勢を更に崩れさせてから、彼女を壊したりしたら楽しそうだ。
——そんな考えは完全に心の中だけに閉じ込め、無駄に色気のあるこの顔立ちを最大限に利用して微笑みかける。するとルスは「そうだね」とあっさり僕に返して、「ワタシはシャワー浴びて来るから、スキアは先に休んでいていいよ」と告げて風呂場に向かった。紅茶の入っていたカップはもう空っぽで、途中できちんとキッチンに下げて行く。
数十分後。安物のキャミソールにショーツを穿いただけという大胆な格好で風呂場から出て来たルスが、僕が先に横になっていたベッドに素知らぬ顔をして入ってきた。壁側に寄り、スペースを開けてやると「おやすみ、スキア」と言って、ルスが嬉しそうな顔を僕に向ける。
——ごくっと、自分の喉奥から大量の唾を飲み込む音が聞こえた。
手のひらが妙に汗っぽくって変な気分だ。だが、ルスの方からは緊張の『き』の字も感じられない。そんな彼女の様子を見て、僕はありもしない勝敗票に黒星を描かれた気分になったのだった。
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