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放課後の校舎は、昼間とはまるで別の建物のようだった。
私は忘れ物のノートを取りに戻っただけだった。けれど職員室に行く途中、理科室の隣にある「理科準備室」の扉が半開きになっているのに気づいた。
理科準備室。
薬品棚や標本、古い実験器具がしまわれている、あまり生徒が立ち入らない部屋だ。うちの学校――桜ヶ丘中学校でも、普段は鍵がかかっている。
なのに今日は、薄暗い隙間が口を開けていた。
中から、かすかに光が漏れている。
誰かいるのだろうか。
「失礼します……」
返事はない。
扉を押すと、薬品の匂いが鼻を刺した。ホルマリンの甘ったるい臭気。棚には人体模型、アルコール漬けのカエル、色あせた骨格標本。天井の蛍光灯はついていないのに、部屋の奥だけがぼんやりと青白い。
その光源は、古い水槽だった。
理科室では見かけない、大きな角形水槽。中の水は濁っていて、ぶくぶくと気泡が上がっている。
私は近づいた。
水の中に、何かが浮いている。
最初はマネキンかと思った。白くて、人の形をしている。
だがそれは、ゆっくりと瞬きをした。
思わず後ずさる。
その拍子に、背後で扉が「バタン」と閉まった。
振り返る。ドアノブを回す。
開かない。
鍵は、内側にないタイプだ。つまり外から閉められた?
「先生?」
声が震える。
そのとき、水槽の中で「それ」がゆっくりと起き上がった。
水音はしない。ただ、重力を無視するように、すうっと立ち上がる。
顔がこちらを向く。
目がない。
あるべき場所が、つるりとした皮膚で覆われている。口だけが、不自然に裂けていた。
べちゃ。
背後で何かが落ちる音。
振り向くと、棚に並んでいた人体模型が一体、床に倒れている。
いや、倒れたのではない。
いなかったはずの位置に、立っている。
さっきまで人体模型は二体だった。今、三体ある。
そのうち一体が、濡れている。
床に水滴がぽたり、ぽたりと落ちている。
私はゆっくりと水槽を見る。
空だった。
水面は静まり返っている。
背後から、湿った足音が近づいてきた。
ぺた、ぺた、ぺた。
首が、ぎこちなく回る。
濡れた人体模型が、すぐ後ろに立っていた。
目のない顔が、私を覗き込む。
口が、ゆっくりと開く。
「観察、開始」
耳元で囁かれた瞬間、体が動かなくなった。
指先が硬直し、皮膚が冷たくなる。
視界の端で、棚の上のラベルが目に入る。
《標本No.37 保存状態:良好》
その下に、新しいラベルが貼られていた。
《標本No.38 準備中》
私は必死に叫ぼうとした。
だが声は出ない。
体がゆっくりと持ち上げられ、水槽の中へ沈められていく。冷たいはずの水は、ぬるく、粘ついている。
最後に見えたのは、扉の隙間。
そこから、誰かがこちらを覗いていた。
翌日。
理科の授業で先生が言った。
「理科準備室には勝手に入らないように。大事な標本があるからな」
棚の一角。
新しく増えた人体模型が、少しだけこちらを向いていた。
目のない顔で。