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あの夜以来、僕の一日は井戸のことから始まり、井戸のことを考えながら終わるようになった。仕事をしようとしても、原稿の画面が霞んで見える。
代わりに脳裏に浮かぶのは、水の底で揺れる白い手。
昼間は何とか頭を振って振り払えるが、夜になるともうだめだ。
気づけば縁側に立って、庭の奥を見ている。
月の光に照らされた井戸は、黒く、そして魅力的だ。
あの中に手を伸ばせば、冷たさが僕を包み、すべての熱を持っていってくれる。
——僕は、その感覚を求めていた。
三日目の夜。
我慢しきれず、また井戸へ向かった。
風はなく、庭は虫の声さえしない。
耳の奥で、自分の心臓の音だけが大きく響く。
縁に手をかけ、ゆっくりと覗き込む。
水面は静かで、月明かりを薄く反射している。
……そこに、あの手があった。
前よりもはっきりと、すぐそこに。
指先が水面のすぐ下で、ゆらゆらと揺れている。
僕の伸ばした手に、あと数十センチだ。
冷たさを思い出し、喉が鳴る。
あの感覚をもう一度——そう思った瞬間、手がわずかに動いた。
水の中で、人間にはできないような柔らかさで、僕の方へと伸びてくる。
そのとき、背後で木の軋む音がした。
振り返ると、おばあさんが暗闇に立っていた。
目は怒っているというより、必死に何かを抑えているようだった。
「……呼ばれたら、応えることになる。離れられなくなる」
そう言って、彼女は僕の腕を強く引いた。
意外な力に、僕は縁から離れるしかなかった。
井戸からの冷気が、急速に遠ざかっていく。
それは安堵ではなく、喪失感を連れてきた。
まるで、大事なものを取り上げられた子供のような気分だった。
部屋に戻っても、眠れなかった。
窓の外から、かすかな水の音が聞こえる気がする。
それは現実の音なのか、頭の中だけの響きなのか分からなかった。
ひとつだけ確かなのは、僕がもう以前の僕じゃないということだ。
井戸の冷たさを知った僕は、あの中に戻りたい。
たとえ、何を失うことになっても。