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『さて、まもなく本日のメインイベント、栗原かぐや対佐野優月の試合が始まります。実況は引き続き、深沢ジャストミート明菜がお送りします!』
耳に差し出したイヤホンで、生放送されている中継の音声を聞きながら、佳華は放送席後方の南側出入口横の壁に寄り掛かり、満員の観客越しに誰もいないリングと、その先にある大型スクリーンを見上げていた。
格闘技の聖地、幸楽園ホールを超満員にして、ゴールデンタイムに地上波での生放送――
弱小団体の旗明け興行としては出来過ぎだろう。
何よりこれから始まるメインイベントは、ファンの期待をいい意味で大きく裏切るモノになると佳華は確信していた。
「おう、探したぜっ!」
「こんな所にいたのですね」
佳華の両隣に、対称的な伸長の二人が立った。まるで携帯のアンテナマークの様に並んで無人のリングを見上げる三人。
「詩織、お疲れさん――絵梨奈、首は大丈夫か?」
リングから視線を外す事なく、声を掛ける佳華。
「久しぶりの試合で、いい運動になりました」
「おうっ! 頑丈なのが取り柄だからな!」
やはりリングから視線を外す事なく、それぞれが返事を返す。
「でも、社長がこんな後ろの方で観戦しなくてもいいのではないですか? リングサイドの席を取ることも出来たのでしょう?」
「確かにな……ただ、今回は場外スペースを広めに取ったからな。その分、観戦スペースが減っているんだ。だから今日はここで我慢するさ」
場外スペース――リングから客席を仕切る鉄柵フェンスまでのスペース。殆どの場合、場外マット一枚分の広さだが、今回佳華はマット二枚分のスペースを取っていた。
「あの場外スペースは不思議に思っていたのですが……もしかして男の娘の為にですか?」
「ああ。場外への飛び技はプロレスの華だからな。おかげで入場者数が八十人は減ったよ――せめてバミューダくらいはやって貰わんと割に合わんぞ、佐野……」
「バミューダって、バミューダ・トライアングルかい? またムチャな注文だな、オイ」
佳華の呟きに、絵梨奈は引きつった笑いを見せた。
バミューダ・トライアングル――場外の相手に対して対角線へ走ってコーナーポストやロープへ両足で飛び乗り、そこから場外へ|後方宙返り《バック宙》で跳んでいく技。つまり、助走をつけた三角跳びから、場外の相手へムーンサルトアタックを敢行するという超高難度の大技だ。
世界的に見ても、この技の使い手は男女合わせて数える程しかいないが――
「それほどムチャでもないさ。佐野は大学に入学した時には、マスターしていたからな」
「どこまで器用なんですか、あの男の娘は……とはいえ、あの栗原かぐやが、そんな派手な大技を簡単に食らうとは思えませんけど」
リング上から後方宙返りで跳ぶという事は、相手と衝突した時に自分の身体は上下が逆になっているという事だ。躱されて自爆した時のダメージは計り知れない。
「まっ、佐野ならなんとかするだろ」
しかし、そんな詩織の苦言にも、佳華は脳天気な笑顔を見せた。
『それではこの試合の特別ゲスト解説者をご紹介しま~す。プロレス評論家としてお馴染みの川井信一さんです。本日はよろしくお願いしますね』
『ま、よろしく』
ふとっ、イヤホンからハイテンションのジャストミート明菜に続いて、やる気無さげで、ぶっきらぼうな中年男の声が届く。
一応、館内にも放送の音声は流れているけど、この位置からではファンの歓声に紛れてほとんど聴き取れない為、中継の音声をイヤホンで聞いているのだ。
しかし、突然流れた中年男の声に、佳華と同くイヤホンで中継を聴いていた絵梨奈と詩織が同時に顔をしかめた。
「オイオイ……あんなヤツ呼んだのかい? アタイ、嫌いなんだよアイツ」
「同感です。自称毒舌評論家なんて言ってますけど、よく知りもしないで勘違いの的外れな誹謗中傷を偉そうに喋っているだけの、短小早漏包茎の中年ハゲオヤジです。短小早漏包茎の……大切な事なので二回言いました」
「そ、そこ、大切なのか……? てゆうか見てきたような言い方だな?」
「直接は見ていませんが、ネットでは有名な話です。主に夜の女性の書き込みで」
「インターネットこえぇ……」
詩織の言葉に佳華は苦笑いを浮かべた。随分と尖った意見ではあるが、プロレスラーに取って彼に対する印象は、ほぼみんなそんな感じだろう。
「まっ、評論家なんていうのは、終わった事に後から結果論でタラレバ言って難癖つけるのが本来の仕事だからな。解説やらせても、マトモな解説にはならんのは仕方ないさ」
「それが分かっていて、ナゼあのような|小漏包《ションロウポウ》を解説に呼んだのですか?」
「そう言うと、なんだか中華料理みたいだな、オイ……」
「絶対に食いたくないけどな……」
佳華を見据える詩織の表情は相変わらずの無表情だが、その言葉にはかなり刺々しいモノがある。余程、あの男に思うところが有るのだろう。
「まぁ、アイツは全女のバカボンの紹介でな。旗揚げの祝いって事で、解説としてアイツを寄越してくれたんだ。ちなみに、アイツのギャラも全女持ちだ」
「オイオイッ! それってどう考えてもワナじゃねぇかっ!?」
絵梨奈も詩織も、全女の社長がアルテミスリングを潰そうと妨害工作をしている事は当然知っている。その全女の社長が、こんな使えない解説を送り込んでくるなど罠以外の何物でもないし、佳華自身もそんな事は百も承知である。
その証拠に、続いて三人のイヤホンから聞こえて来たセリフは――
『まもなくメインイベントのゴングが鳴るワケですが、川井さんはこの試合、どうご覧になりますか?』
『どうもこうも無いですね。仮にも元三冠王者の栗原かぐやに、無名でド新人のデビュー戦の相手をさせるなど、何を考えているのやら――しかも、それがメインだと言うのだから、正気の沙汰じゃない。マッチメイクというモノが分かっていないとしか言いようがないですね』
『は、はあ……』
『まっ、資料を見た限りではこの佐野って選手――容姿は悪くないですから、大方アイドルレスラー対決などと考えているのでしょう。こんなお遊びみたいな試合をメインに持って来るとは……社長の竹下もレスラーとしては一流でしたが、経営者としては三流以下だったという事でしょうね。もう少し頭の切れる女だと思っていましたが、買いかぶりだったようだ』
困惑気味のジャストミート明菜をよそに、川井は言いたい放題の毒舌ぶりだった。
「たくっ……言わんこっちゃない……」
「なぁ~にが、買いかぶりだよ。|かつら《ヅラ》かぶりの分際で」
落胆する絵梨奈とは対象的に、不敵な笑みを浮かべる佳華。
「なるほど、そういう事ですか――納得が行きました」
佳華のその態度を見て、再びスクリーンへと視線を戻す詩織。その表情は変わらないが、口調からはスッカリ刺が無くなっていた。
「そういう事って、どういう事だよ? アタイは全然納得出来ねぇーぞ!」
一人だけ納得していない絵梨奈は、そんな二人を横目で睨みつける。
「よく考えれば簡単な事ですよ。このマッチメイクを見れば、関係者やファンも少なからずあの小漏包と似たような事を思っているし、不満も大きいはずです」
「でも絵梨奈――お前はこの試合が、あの自称毒舌評論家が言ったみたいに、一方的なお遊び試合になると思うか?」
「いや、ならんだろ。アタイもあのニィちゃんとはこの一ヶ月、何度もスパーリングしたけど、ありゃあ本物だ。正直どっちが勝つか分かんねぇ」
「つまり、そういう事です――あの小漏包が試合前に男の娘を叩けば叩くほど、いざ試合が始まった時のギャップが大きい」
「そして、かぐやと佐野が互角の試合をすれば、あの自称毒舌評論家とバカボンの面目はマル潰れだ」
「おおっ! なるほど!」
絵梨奈が納得すると同時に館内の証明が消え、リングがライトアップされる。そして巻き起こる、女性ファンの黄色い歓声――
マイクを片手にそのリングに立っているのは、選手の紹介をするリンクアナウンサー。
バタフライシャツにクロスタイ。燕尾ジャケットにスリムスラックという、まるで執事のような衣装を身に着けた男装の麗人。
この試合に限り、リングアナ兼レフリーを務めるアルテミスリングの契約コーチ、大林智子だった。
『プロレスとは最強の格闘技である。月の女神アルテミスに導かれた優しい月とかぐや姫が最強の名をかけて今宵、|相見《あいまみ》える――』
「随分と乙女チックですね――この口上は、佳華さんが考えたんですか?」
「まぁな。あたしは永遠の十七歳だから乙女チックなのは当然だ。その証拠に、今でも少女コミックとか読むぞ。スイートとかアヤとか」
「それは少女コミックじゃなくてレディースコミックです。しかも十八歳以上推奨の……まっ、その辺はわたしも読んでますけど」
「アタイも読んでるぜ。いいよなぁ~、お姫さま抱っこでベッドへ――とか憧れるぜ」
二メートル近い位置にある、頬を染めた顔を見上げる佳華と詩織……
「ムリだな……」
「ムリですね……重量挙げ五輪選手レベルの彼氏でもつくらないと……」
「っんだとコラッ!!」
と、そんなバカなやり取りの中、美形リングアナの紹介が続いていく。
『――青コーナー! 月より舞い降りた、|天翔《あまかけ》るハイスピード・プリンセス! 佐野優月選手の入場ですっ!』
和製ロック調の入場テーマ曲が流れ出し、青コーナーへと続く花道が照明に照らさる。そして、スモークの炊かれた入場口に人影が浮んだが……
「「「「ブゥーーーッ!」」」」
同時に、観客席からはテーマ曲をカキ消す程にこだまする大ブーイングの嵐……
しかし、そのブーイングを聞きながら、佳華はニヤリと不敵に笑ってみせた。
「さあ、佐野……観客と毒舌評論家のド肝を抜いてやれ」
(*01)バミューダ・トライアングル
本文にも書いた通り、三角跳びから場外へのムーンサルトアタックという超高難度の大技。