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俺と兄、そして仁さん。
三人で、新しい関係を築いていけるかもしれない。
そんな確かな予感が、俺の胸に満ちていた。
すぐに仁さんに、兄と話せたことをメッセージで送った。
指先が、喜びと興奮で微かに震える。
【上手く行ったんだな】
すぐに返ってきた短いメッセージ
彼の言葉はいつも簡潔だが、その裏にある温かさが伝わってくる。
【仁さんのおかげです。ありがとうございます、それで急なんですけど…少し話したいこともあるんですが、明日あたり会えたりしますか?】
【ああ、それなら俺からも話がある。いつものカフェでいいか?】
【はい!1時ごろに集合でいいですか?】
【おう】
という短いやり取りをして、会話は終わった。
明日、そこで、兄さんに言われたことや
俺が仁さんと正式な番になりたいと思っていること
そして、これからの俺たちの関係について、諸々を話すつもりだ。
それにしても、仁さんからも話があるってなんだろう?
まさかとは思うけど、別れ話…ではないだろうし
うん…ちょっと不安だけど、仁さんも俺のこと好きって言ってくれてたし…大丈夫なはず。
そんなことを考えて、俺は携帯の画面から目を離すと、兄に向かって
「ねぇ、兄さん」
と、少し改まった調子で呼びかけた。
その声は、まだ少しだけ緊張を含んでいたが
先ほどの重苦しい雰囲気から一転し、未来への希望を秘めたものだった。
兄さんも俺の気配に気づいたようで、ゆっくりとこちらに視線を向けてきた。
「今からさ、気分転換にきのとやでも行かない?」
俺は、昔二人でよく行っていた、思い出の洋菓子店「きのとや」へ行こうと提案した。
それは、ただ甘いものを食べたいというだけでなく
幼い頃の、何のわだかまりもなかった頃の
温かい記憶を呼び覚ましたいという俺なりの願いでもあった。
兄さんはキョトンとした表情で、一瞬目を丸くしたが、すぐに「急になんだよ、笑」と、少しだけ弛緩した笑顔を見せた。
その笑顔は、どこか幼い頃の兄を彷彿とさせ、俺の心も少しだけ安心する。
いつまでも重く沈んだ空気に浸っていたくはなかったからだ。
この笑顔が、これから少しずつ増えていくことを願わずにはいられなかった。
「別に?ただ、久しぶりに兄さんの車でどっか行きたいなぁって思っただけ」
俺がそう言うと、兄はフッと小さく笑い
その笑い声は、先ほどまでの重苦しい沈黙を破る、心地よい響きだった。
「…なら、甘いものでも食べに行くか」
あっさりと応じてくれた。
そうし流れるように兄が車を出してくれて、俺はいつものように兄の助手席に座り
シートベルトを閉めた。
ただそれだけの、ごく当たり前の動作だった。
しかし、その当たり前だった兄との日常が
今更ながら、どうしようもなく愛おしく感じられた。
助手席の窓から差し込む午後の柔らかな日差しが、俺の頬を優しく撫でる。
車のエンジン音が心地よく響き、窓の外を流れる見慣れた景色を眺めていると
少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。
まるでここが、俺の本当の居場所だとでも言うような、深い安堵感がそこにはあった。
兄の隣にいるというだけで、世界が少しだけ明るく、そして穏やかになった気がした。
久しぶりに訪れたきのとやは
甘く、香ばしい懐かしい匂いでいっぱだった。
焼き立てのパイの香り、チョコレートの甘い誘惑
そして淹れたてのコーヒーの香りが混じり合い
店全体を包み込んでいる。
店内に入ると、ショーケースの中には、色とりどりの美しいケーキや
こんがりと焼けたシュークリームが整然と並んでいて、まるで宝石箱のようだった。
見ているだけで心が浮き立つようなワクワク感が込み上げてくる。
幼い頃、兄と二人でこのショーケースの前で目を輝かせた記憶が鮮明に蘇った。
兄さんと一緒になって、ガラスケースに顔を近づけ、並ぶ菓子をあれこれと眺めた。
どれにするか悩んで選んでいる時間は、本当に楽しくて、まるで子供の頃に戻ったようだった。
兄と顔を見合わせ、どちらにするか迷う仕草に思わず笑みがこぼれる。
結局、その中でも昔からのお気に入りのものをそれぞれ選び
半分ずつ分け合うことにした。
そうすることで、二つの味を楽しめるという、昔からの俺たちの定番だった。
店内で空いていた奥の二人席に向かい合って座ると、俺と兄さんは、自然と手を合わせ
「いただきます」と小声で言い合ってから、それぞれのケーキを食べ始めた。
俺が選んだ抹茶ロールケーキは、ふわふわで柔らかく
口に入れた途端、抹茶の豊かな香りとクリームの優しい甘さが広がり
まさに至福の幸福感が全身を駆け巡る。
舌の上でとろけるような食感と、鼻腔をくすぐる抹茶の香りが
今日の重い出来事を少しずつ溶かしていくようだった。
ふと、兄の方に目をやると、彼が一口ケーキを齧る度に
チラリと見える白い歯や、ゴクリと動く喉仏が、なぜか妙に気になった。
そんな些細な動作さえも、今の俺には、どうしようもなく愛おしく見えて仕方がない自分がいた。
彼の存在そのものが、俺にとってかけがえのないものだと、改めて強く感じた。
「んー、おいひー」
俺は、頬張りながら、思わずそんな子供っぽい言葉を漏らした。
口の周りにクリームをつけながら、満面の笑みを浮かべていたかもしれない。
兄は、それを見て、嬉しそうにフッと笑った。
「昔から楓は、この抹茶ロール好きだよな」
その言葉に、俺はハッとした。
確かに小さい頃から、きのとやに来るたびに、いつもこの抹茶ロールを選んで食べていた記憶がある。
兄が、そんな些細なことまで覚えていてくれたことに
純粋な嬉しさが込み上げる反面、少し照れ臭くなって、思わず俯いた。
頬が熱くなるのを感じた。
すると兄は、そんな俺の様子に気づいたようで、ニヤッと意地の悪い笑顔を浮かべてきた。
俺は慌てて誤魔化すために、目の前にあった紅茶を飲むフリをした。
温かい紅茶が、喉をゆっくりと通り過ぎていく。
「なぁ、楓」
「なに?」
聞き返すと、兄はなぜか照れ臭そうに、頭をポリポリと掻いていた。
一体何なんだろう、と首を傾げていると
「ありがとうな」
その一言で、全てが伝わった気がした。
何に対する礼なのか、具体的な言葉はなかったけれど、それでよかった。
ただ、兄の心からの感謝が、俺の心にじんわりと染み渡り
純粋に嬉しかったのだと思う。
彼の言葉には、過去のわだかまりを乗り越え
再び俺と向き合ってくれたことへの、深い感謝が込められているように感じた。
だから俺も、素直に微笑み返すことができた。
その瞬間、俺たちの間にあった見えない壁が、少しだけ薄くなったような気がした。
兄さんに家の前まで送ってもらい
兄と笑顔で別れて
シャワーを浴びて着替えると、俺は早速ベッドに入った。
清潔なシーツと、ふかふかの布団に潜り込むと
その温もりが心地良くて、すぐに深い眠気が襲ってきた。
しかし、まだ眠りたくない気持ちの方が勝っていて、なかなか寝付けなかった。
今日の出来事が、まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
兄の絶望に満ちた瞳、俺の心に残る深い傷
そして、それでもなお、家族であることに変わりはない。
そして、仁さんのこと。
明日、彼に何から伝えようか。
未来への期待と、ほんの少しの不安が入り混じり、俺の心は高鳴っていた。
胸の奥で、温かい光が灯っているのを感じた。
目を閉じても、瞼の裏には兄の笑顔や
仁さんの優しい眼差しが浮かび上がり、俺はしばらくの間、その余韻に浸っていた。
窓の外からは、夜の静寂が広がり、遠くで車の音が微かに聞こえるだけだった。
やがて、ゆっくりと、しかし確かな安堵感に包まれながら、俺は深い眠りへと落ちていった。