テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
水瀬菜音
11,918
#岩本照
絶対辰哉
525
#BL
うさみみ
20
照さんの話が終わると同時に、ほろりと雫が僕の目元から零れ落ちて、彼の煌めく銀色の毛並みへと静かに吸い込まれていく。背中に乗せてもらっている所為で、僕の顔は照さんの首元の直ぐ近くにある。どれだけ隠そうとしても、この距離では隠し通せる筈がなかった。
『…だから言っただろ、後悔すんなって。』
照さんが歩みを止めることなく、こちらへと視線を向ける。
「…っ、後悔は、してません。」
気付かれたことに焦って、僕は慌てて外套の袖でごしごしと目元を擦る。 だけど、一度決壊してしまった感情は言うことを聞いてくれない。止めようとすればする程、熱い涙が次から次へと溢れて、視界をぐにゃぐにゃに歪めていく。
「でも、ごめんなさい…気持ちが、抑えられなくて…!」
こんなところで泣いて、話してくれた照さんを困らせたいわけじゃないのに。情けない声で謝る僕に、照さんは何も言わなかった。ただ、僕を乗せた背中を優しく揺らしながら、雨上がりの静まり返った森を一歩、また一歩と力強く歩き続ける。
夜の静寂の中で、僕が鼻を啜る小さな音だけがやけに大きく響いていた。
「蓮さんの苦しさや痛みを知ろうとしても、僕には計り知れません。」
震える声を絞り出すようにして、ぽつりと胸の奥の言葉を零す。
瞼を閉じると、さっき照さんから聞いた、あまりにも残酷で静かな過去の光景が、まるで自分のことのように心に映し出されて…胸が引き裂かれそうになる。
「…ただ、生まれてきたその身だけの理由で…っ」
そう思うとまた一つ、温かい雫が照さんの毛並みを濡らした。
「そんなの、あんまりです。蓮さんは何も悪いことなんてしていないのに…っ!」
どうして、ただそこに生きているだけで理不尽に傷付けられ、奪われなければならなかったのか。 悲しみと、蓮さんが背負わされてきた孤独の深さに、胸が痛くて堪らない。
照さんは、僕のその言葉を静かに聞きながら、前を見つめたまま少しだけ目を伏せた。
『…それが、俺達の世界の現実だ。』
ぽつりとした、短い言葉だった。 けれど、多くを語らない照さんのその一言だけで、蓮さんがどれ程の年月をその傷と共に生き、そしてどれ程頑なに心を閉ざさざるを得なかったのかが伝わってくる。
「僕…解りました。」
一度、引き裂かれそうな胸を落ち着かせるように、冷たい夜の空気を吸い込む。
「皆さんとの距離じゃなくて、僕との距離だったんですね。人間である僕があの場に居ることで、やっとできた自分の大切な居場所を奪われることが…怖いと、思って…。」
そう気付いた瞬間、蓮さんのあの余所余所しくて、どこか寂しげな瞳の奥にあったものの正体が、すとんと腑に落ちた気がした。
僕の言葉を聞いた照さんは、優しく息を吐いた。
『…それは最初だけだな。お前は無理に近付こうとしないから、蓮はお前があの場所へ来ることを拒んでいない。…寧ろ、慣れてきている。』
その言葉に僕は袖で涙を拭うと、今できる一番優しい笑顔を作って、小さく笑った。
「では、僕は蓮さんがこれ以上怯えなくていいように…これからも、蓮さんが安心できる距離を大事に守ります。」
僕が蓮さんを救いたいとか、仲良くなりたいとか、そんなのは僕の勝手なワガママだ。本当に蓮さんのことを大切に思いたいなら、僕がすべきは彼との境界線を守ること。
少しの間、帰路に照さんの足音だけが響く。
やがて、彼は柔らかく息を吐き出した。
『…それでいい。』
その頭の中に響いた声は、いつもよりずっと低く、安堵したようにどこまでも優しく響いていた。
「はい。」
僕はそっと、照さんの広くて温かい背中へ額を預ける。 銀色の毛並みが、冷えかけた僕の頬を優しく包み込んでくれた。
もう、涙は止まっていた。 だけど胸の奥だけは、まだ静かに痛んでいた。
僕の知らない、雨の夜の孤独を思う度に。
佐久間を送り届け、再び夜の静寂へと戻ってきた。背中に乗せていたアイツの体温は、夜風ですっかり消え去っていた。
『照。』
静寂を細く切り裂くような声に、俺はふっと足を止めた。 振り返ると、暗闇の奥で白い霧の塊が揺らめき、その中からゆっくりと現れたのは、人の姿へと形を変えていた蓮。
(…珍しいな。)
蓮がわざわざ人の姿で話しかけてくるなんて。その事実だけで、これから交わされる対話の重さが予感できた。
「…蓮、どうした?」
「聞きたいことがある。」
感情の起伏を押し殺したような、静かな声だった。
「何だ、急に。」
「佐久間のこと。」
ぴくっ、と一瞬だけ、全身の筋肉が硬直した。長年共に生きてきた蓮の目を誤魔化すには、その僅かな反応だけで十分すぎた。
「佐久間が来た時の照は、『どっち』なの?」
「………。」
「幻獣側なの? それとも──人間側?」
俺が人間へ肩入れしている。そう思われても、おかしくない問いだった。返す言葉を探すように、喉が微かに鳴る。
「蓮。その話は、」
「それに、」
俺の防衛線を、蓮の言葉が鋭く遮る。
「そもそも、何で聖職者を助けたの?」
「…聖職者らは違う。」
「どういう意味?」
蓮の澄んだ蒼い瞳が、俺の真意を見定めようと射止めてくる。俺は視線を逸らさず、静かに言葉を紡いだ。
「神を信仰しているだけで、アイツらはただの人間だ。襲われているなら、助ける義理くらいはある。…でも、」
「?」
そこで言葉が一度、途切れる。脳裏を過ぎるのは、さっきまで俺の背中で、自分ではなく蓮の孤独を思ってポロポロと涙を流していた、あの人間の温もりだ。
「佐久間は、初めて会ったあの日だって、俺を見ても怯えもせずに礼を言ってきた。…罵声とか憎まれ口を叩かれても…種族として、俺は何も言えない立場なのに。」
聖職者から投げつけられる憎悪や、怯えきった視線。それが俺にとっての当たり前だった。 それなのに、佐久間だけは違った。俺を禍いでも化け物でもなく、一つの命として見て接してきたのだ。
蓮は何も言わない。ただ、俺の横顔をじっと見つめている。その沈黙の中に、蓮自身が抱える周りへの不信感と、だからこそ生まれる葛藤が透けて見えた。そこで俺は、最も伝えるべき一線を口にする。
「でも、お前らに危害があるなら、それは絶対に優先する。…そこだけは、勘違いしないでほしい。」
長として、仲間を脅かす存在は何者であれ絶対に排除する。そこだけは…例えアイツが相手であってもブレることはない。
「………なら、尚更だね。」
「何が、」
俺の問いかけを待つことなく、蓮の身体の輪郭がすっと解け、再び美しい獣の姿へと戻っていく。
『今日は、代わりに巡回に行ってあげる。ゆっくり考えて。──涼太、行こう。康二、火をお願い。』
『うん。』
『あいよー!行ってらっしゃーい!』
蓮の低い声が響くと、暗闇の奥から、康二の吐いた温かい火が灯るカンテラを大切そうに抱えた涼太が姿を現した。涼太は小柄な身体を器用に躍らせて、蓮の黒い背中へとぴょんと飛び乗る。康二は淡く揺らめく炎の翼を小さく羽ばたかせ、光量を抑えながら、すやすや眠る翔太の傍へふわりと寄り添った。
静かに、けれど迷いのない足取りで、仲間たちの背中が夜の帳の奥へと消えていく。
静まり返る森の中で、俺は星が煌めく冷たい夜空を見上げた。 静寂が身体に染み渡るにつれて、胸の奥で、頑なに鍵をかけて閉じ込めていた古い古い記憶が、音を立てて蘇り始める。
(──母さん、貴女はどうして、)
俺は届く筈のない遠い光を仰ぎ続けていた。
コメント
2件
コメント失礼いたします。世界観に引き込まれて一気に読ませていただきました。 続きも楽しみにしております。