テラーノベル
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九条さんのその言葉が、私の胸を鋭く刺した。
10年前、私を救えなかった悔恨を抱え、今日まで命を懸けて守ってくれた人。
その彼が、私の存在を忘れてしまった。
足元に転がったUSBメモリが、残酷な代償の証として虚しく転がっている。
周囲を囲む制圧部隊の赤いライトが、粉砕されたガラスの破片に反射し、温室を血の海のように染め上げた。
「栞、……行こう。…もう、いいんだ」
水槽の中から、母・栞奈の声が響く。
それはスピーカーを通した合成音声ではない。
私の喉の奥に響く、直接的な意識の奔流。
母の瞳には、かつての慈しみと、底知れない覚悟が宿っていた。
『ふふふ、感動的な再会ね。でも、栞ちゃん、よく考えて』
美波の肉体を操るミチルの声が、制圧部隊のスピーカーから重なって響く。
『お母さんの脳は、今やこの国の送電網、通信、医療システムすべての「心臓」なの』
『あなたがその「真の旋律」でシステムを壊せば、病院の生命維持装置は止まり、飛行機は落ち、街は闇に包まれる。…何万人の命を捨ててまで、自分だけ救われたいの?』
部隊の銃口が、一斉に私と、記憶を失い呆然とする九条さんに向けられた。
「……お姉ちゃん」
蓮が私の服の裾をギュッと掴んだ。彼の首元のカラーは外れているが
その瞳には、パンドラにリンクされた膨大なデータの残滓が、電子の火花のように明滅している。
「……蓮、九条さんをお願い」
私は一歩、前に踏み出した。
足元で割れたガラスがパリンと音を立てる。
喉の奥が、熱い。
10年前に焼かれたあの時の熱じゃない。
これは、母から託された「命」そのものの温度だ。
(……お母さん。私、わかったよ。お父さんは、お母さんを神様にして世界を支配したかったんじゃない。…世界を人質にして、お母さんを独り占めしたかっただけなんだ)
私は、母の水槽にそっと手を置いた。
母は、微かに微笑むように目を細める。
「……世界を壊す。…そんなの、パンドラじゃないわ」
私は深く、深く息を吸い込んだ。
ミチルの高笑いが止まる。部隊の指揮官が「撃て!」と叫ぶ。
その瞬間、私は声を解き放った。
「────あああああああああああ!!」
それは破壊のための咆哮ではなく、包み込むような、圧倒的な「静寂」の旋律。
私の喉に刻まれた暗号が、母の脳と共鳴し、温室を中心に巨大な「空白の領域」を作り出していく。
電子回路が焼き切れる音。
兵士たちのバイザーが暗転し、銃が重たい鉄屑と化す。
ミチルが操っていた美波の肉体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
だが、代償はすぐさま訪れた。
私の視界が急激に暗くなり、全身の力が抜けていく。
喉から鮮血が溢れ、白い百合の花びらを赤く染めた。
「……栞!!」
九条さんの叫び声。
記憶は失っても、その体が、その心が、私の名前を叫んでいた。
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深冬芽以