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村に住み始めてから30日が経とうとしていた。
村の人達との関わりにより、少しずつこの世界や村のことについても理解が深まったように思う。
まずここが、トラノンモ地方のピユアという名前の村だという事。
ピユアは農業と畜産とで生計を立てている村のようで、7日に一度、別の村から訪れる貿易商と収穫物の取引をしていた。
慢性的に人手は足りていないようで、驚くことに俺の存在は忌避されることもなく、むしろ歓迎された。
空き家となっていた小屋を借り、人手が足りていない仕事を手伝う毎日。
そんな生活を続けていたせいか、村のほとんどの人と交流を持つことができた。
記憶が無く、あって当然の歴史や地理に関しての知識が無い。けれども、そんな俺を村の人達は奇異の目で見ることも無く暖かく接してくれていた。
村を訪れてから31日目。
今日はチヒロと共に動物の世話をすることになっていた。
二人で餌が入った籠を抱え、世話をする動物が飼育されている場所へ向かう。
動物の世話が好きなのだろうか、隣にいるチヒロはとても楽しそうに笑っている。
放牧地に着くと、可愛らしい姿のウサギが跳ね回っているのが見えた。
体長は30cmほどで、白い体色に灰色の長い耳、耳の内側は綺麗な桃色の毛が生えそろっている。
綺麗好きで、爪を研ぐように毛づくろいをしているその姿から、研磨ウサギという名前で呼ばれているらしい。
ずっと昔に毛皮目当ての乱獲にあって絶滅しかけていたそうだが、この村で保護、飼育に成功し、今では金を持った商人の愛玩用のペットとして少数だが高値で取引されている。
柵に囲まれた放牧地の中では、20匹ほどの研磨ウサギがくつろいでいた。
その中に一匹だけ、耳が灰色ではなく、空色をしているウサギが混ざっている。
「チヒロ、あの子は?」
耳が空色のウサギを指して尋ねると、チヒロは少し困ったような顔をした。
「あの子は、生まれつき耳の毛の色が薄い子で……。研磨ウサギは綺麗な体毛の子ほど高値で買われていくから、きっとあの子は残っちゃうかな……」
少し寂しそうな口調で、チヒロは言った。
群れの中で、一匹だけ他とは違う個体。その姿にどこか自分が重なった。
群れの中に馴染めているようで、他から見たら俺の姿もこんな風に異質に映っているのだろうか。
「で、でも! 売れずに残ってくれるっていうことは、それだけ長く一緒にいられるってことでもありますし。繁殖のために次の世代の親になる子は絶対に必要だから、ダメな子ってわけではないんですよ」
こちらが話している事を察したのだろうか、耳が空色のウサギがこちらに走ってきた。チヒロは優しく微笑むと、そのウサギを抱きかかえ、頭を撫でた。
「私は、この子もちゃんと好きですよ。それにこの子なら、感情移入していてもいなくなったりしませんからね。……他の子は、いくら可愛がっていてもいつか売られていってしまうのかもと考えると、どうにも寂しくなってしまって……」
耳が灰色のウサギは、気持ちよさそうに頭を撫でられていた。きっとよく懐いているのだろう。
餌やりを終えた後も、少しの間、二人で研磨ウサギと遊んでいた。
普段は少し大人びている少女だったが、ウサギと遊んでいる時だけは、子供のままの、無邪気な顔で笑っていた。
研磨ウサギの世話を終えて片づけをしていると、遠くから必死な顔で走ってくる村人の姿が見えた。顔は当然見覚えがある。普段は羊の世話をしているオメリーさんという人だ。
「チヒロちゃん、ハッセくん、ここにおったのか」
俺達の前までくると、オメリーさんは息を切らせて膝に手をついた。
「ど、どうしたんですが、オメリーさん。そんなに急いで」
チヒロが心配そうに尋ねると、オメリーさんは酷く急いだ口調で話し始めた。
「教団が! 教団の連中がこの村に向かってる! もう村のみんなは非難を始めているから、二人も早く近くの小屋に!」
オメリーさんは放牧地の隣にある道具小屋を指差した。隣では、チヒロが青ざめた顔で震えている。
「説明している時間は無い! 早くそこの小屋に! 私は他の連中にも伝えに行かなきゃならん。早く!」
オメリーさんに背中を押され、二人で道具小屋に入った。小屋の扉の隙間からは、走っていくオメリーさんの後ろ姿が見えた。
隣では、チヒロが俺の服の裾を握って震えていた。
「チヒロ、教団っていうのは?」
俺が尋ねると、チヒロは小声で話し始めた。
「教団というのは、最近この辺りで略奪を繰り返している新興宗教団体のことです……。正式な名前は”教団クロス”。ハッセさんが村に来る何十日か前に発足したらしく、近くにあった教団や盗賊グループを飲み込みながら、あり得ない速さで成長していると聞きます……」
チヒロの震えは止まらず、むしろ話し始める前よりも強く、服の裾を握りしめていた。
「……襲われた村では、財産や農産物だけでなく、若い人間は男女を問わず教団に連れられていくという話です」
チヒロは、俯いて震えを必死に隠しているように見えた。
「大丈夫だ。この古い小屋なら人が入っているとはわからないさ。もし見つかりそうになったら、後ろにある藁の下に隠れれば見つかるわけがない」
そう言って、チヒロの肩を抱いた。
少しだけ震えも収まったようで、二人で小屋の隙間から外を確認していると、遠くから大勢の足音が聞こえてきた。
少しずつ、その姿が鮮明になっていく。集団は50人ほどで、何人かは馬に乗って移動をしていた。
「監視は俺がやるから、チヒロは藁の下に」
そう言うと、チヒロは頷いて藁の下に潜る。
近くから見ても藁の下に人がいるとはわからない。これでチヒロは大丈夫なはずだ。
安心し、隙間から監視を再開する。
馬に乗った集団の中でも、一際豪華な装飾を施した馬に乗っている男は、短く刈り上げた髪で少し太った体型をしていた。
その姿を見た瞬間、頭痛が走った。
どこかで見たことがあるという確信にも似た思い。
記憶は無いはずなのに、あの男の姿を見ているだけで憎悪と吐き気が込み上げてくる。
『当職に任せれば全て上手くいきます。君は着手金を渡すだけでいい』
潰された蛙のような声の幻聴が耳の奥で反響し、ノイズと共に過去の記憶がフラッシュバックする。
俺は、あの男の名前を知っていた。
「弁護士 ―――― 唐澤貴洋!」