テラーノベル
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午後十一時。
部屋の明かりを消し、モニターの輝度を少しだけ上げる。
これが僕の入信の儀式だった。
使い古した椅子のきしむ音が、静まり返った古いアパートの自室に響く。
コンビニで買ったぬるい麦茶を口に含んでから、僕はブックマークの最下段にある、名前すら設定されていないタブをクリックした。
画面が切り替わる。
黒い背景に、白いテキストで、ライブ配信中の文字。 そして、その下に表示される残酷なまでの数字。
[視聴者数:1]
[チャンネル登録者数:0]
小さく跳ねていた心臓が、再び落ち着きを取り戻す。
よし、今日も僕だけだ。
この数字が[2]になれば、僕は得体の知れない嫉妬に狂い、[0]になれば、彼女の生存を確認できずに絶望する。
世界でたった一人、僕だけが彼女を認知しているという事実。
それが、僕にとっての唯一の福音だった。
「……こんばんは。ええと、今日も来てくれて、ありがとうございます」
安物のマイクが拾うホワイトノイズに混じって、彼女の声が響く。
画面に映っているのは、彼女の顔ではない。
無料素材の、どこか寂しげな星空の静止画だ。
彼女は決して顔を出さない。名前も名無しのままだ。 けれど、その声には、磨かれる前の原石のような、あるいは雨に濡れた子犬のような、放っておけない危うさがあった。
彼女の配信は、いつもとりとめがない。 今日食べたパンが少し焦げていたことや、道端に咲いていた花の名前が思い出せなかったこと。
SNSに書き込めば一秒でタイムラインの塵に消えてしまうような、そんな話たち。
くだらなく聞こえるだろうが、僕からすれば、その話こそ生きる意義と言っても過言ではなかった。
「今日は、少しだけ悲しいことがありました。……仕事で、私の代わりなんていくらでもいるんだなって、思い知らされることがあって」
彼女の声が微かに震える。 僕はキーボードの上に指を置いた。
『そんなことないよ』
『僕は君の声に救われてる』
そんな、安っぽい励ましを打ち込もうとして、すぐに消した。
僕は彼女のファンではない。ましてや救世主でもない。
僕はただの視聴者だ。もし僕が彼女を全肯定し、彼女が自信を持ってしまったら、彼女はもっと多くの人に自分の声を届けたいと願うだろう。
そうなれば、彼女は僕の手の届かない場所へ羽ばたいてしまう。
彼女をこの登録者0人という暗い井戸の底に繋ぎ止めているのは、彼女の自信のなさと、僕の登録ボタンを押さないという静かな拒絶だ。
「……でも、いいんです。こうして誰か一人が、私の独り言を聞いてくれるだけで。それだけで、私はまだ、ここにいてもいいんだって思えるから」
彼女は小さく笑った。
その笑い声に含まれた寂寥感が、僕の胸を締め付ける。
彼女の孤独を愛しながら、彼女の孤独を癒やしたいと願う矛盾。
僕は、彼女を殺しながら生かしている、自分で言っておきながら最低だ。
配信開始から三十分が経った。
コメント欄は僕が数回打った「こんばんは」や「そうなんだ」という短い挨拶だけで埋まっている。
ふと、ブラウザの更新ボタンに指が触れそうになる。
もし、今この瞬間に誰か別の人間が迷い込んできたら? もし、この隠れ家がSNSで拡散されてしまったら?
想像するだけで、指先が冷たくなる。 僕は以前、彼女の配信の断片を切り取って、自分のSNSに投稿しようとしたことがあった。
「こんなに素敵な声の人がいる」と、世界に自慢したかった。 けれど、投稿ボタンを押す直前で、猛烈な吐き気に襲われた。
彼女が有名になる。 コメント欄が何百、何千という称賛で埋め尽くされる。
彼女は僕のことなど忘れ、大勢の中の一人として僕を扱うようになる。
……そんなのは、耐えられない。
彼女は、誰もいない客席に向かって歌い続ける歌姫でなければならない。
そして僕は、暗闇の特等席で、彼女の零す涙さえも独り占めする唯一の観客でいたいのだ。
「あ、もうこんな時間。……そろそろ、終わりますね」
彼女の声に、終わりの気配が混じる。
この瞬間が一番嫌いだ。
光回線が切断され、彼女という存在がこの世から消えてしまうような錯覚に陥る。
「今日も、ありがとうございました。……また、明日もここで会えたら嬉しいな。おやすみなさい」
画面が暗転し、ライブ配信は終了しました。という無機質な文字が表示される。 視聴者数は[0]に戻った。
僕は暗闇の中で、しばらく動けずにいた。 モニターに映る自分の顔は、ひどく青白く、獲物を待つ蜘蛛のように卑屈に見えた。
マウスカーソルを動かし、画面右上の赤い[チャンネル登録]ボタンに合わせる。
これを押せば彼女の通知欄には、新しい登録者がいます。という文字が躍るだろう。
彼女はきっと、飛び上がるほど喜ぶ。その喜びが、彼女を明日へと繋ぎ止める糧になるかもしれない。
けれど、僕はクリックしない。
彼女には、明日も誰も見てくれないという不安の中にいてほしい。
その不安があるからこそ、彼女は僕に、縋るような声を向けてくれるのだから。
「愛してるよ」
声に出して、僕は呟いた。
届くはずのない言葉は、壁にぶつかって空虚に消える。
明日もまた、僕は彼女を見つけないために、この場所にやってくる。 登録者0人の、僕だけの聖域に。
澪
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???
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コメント
1件
読み終えました。この「観測者一人の箱庭」、ぞわっとさせる話でしたね。視聴者数1という数字に一喜一憂する主人公の独占欲が、愛と所有の境界を曖昧にしていく感じがとても生々しい。彼女を「誰にも見つからないように」守りながら、同時に「彼女の孤独を糧にしている」という自己矛盾——その自己認識の鋭さに、逆に痛みを感じました。最終行の「愛してるよ」も、届かないとわかっていて呟くその切実さが、救いようのない美しさで。続きが気になります。