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#溺愛
桜咲かな
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桜咲かな
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第259話 残された案内層
【異世界・王都東部/旧治療施設・地下研究区画・夜】
アデルが保護施設へ向かったあとも、地下研究区画では調査が続けられていた。
エリウスが使っていた机の下。
そのさらに下に隠されていた小さな結界層が、淡い光を放っている。
ダミエは床へ片膝をつき、結界の縁を指でなぞっていた。
フードの奥から見える目は、細い光の動きだけを追っている。
「閉じ込める層じゃない」
ノノが尋ねる。
「避難させるためのもの?」
「そう」
ダミエは短く答えた。
「入口は多い。出口は固定されてない」
「それって危なくない?」
「逆」
ダミエは結界の一部を指した。
「出口を先に決めると、そこを奪われる」
結界の中へ入った意識が、どこへ戻るのか。
身体へ戻るのか。
別の安全な層へ移るのか。
それを術者側が先に決めてしまえば、敵に出口を利用される可能性がある。
だからエリウスは、最後の道を空白にした。
「本人が決めるまで、出口を作らないんだ」
ノノが言った。
ダミエは小さく頷いた。
「道だけ守る」
イデールは棚から回収した古い銀の輪を机へ置いた。
「治療器具も同じ考え方みたいだね」
銀の輪は、意識が身体から離れかけた患者へ使うものだった。
現在の王国医療棟にある器具は、
術者が患者の意識を身体へ押し戻す構造になっている。
だが、エリウスの器具は違った。
意識が離れるのを無理に止めない。
戻るかどうかを決めさせるまで、身体との細い繋がりだけを残す。
「身体へ戻すのが正しいとは限らないからかな」
イデールの声から、いつもの柔らかな響きが少し薄れた。
「身体の痛みが強すぎる人もいる」
「記憶を思い出すことで、もっと傷つく人もいる」
「それでも、治療する側が勝手に決めたら駄目だって考えてたんだね」
セラが静かに答える。
「はい」
「エリウスは、救うことと決めることを分けていました」
「生きてほしいとは願っていました」
「ですが、本人の代わりに答えを決めることはしませんでした」
ノノは水晶板へ、地下結界層の構造を映し出した。
古い線が複雑に重なっている。
一見すると、途中で作るのをやめた未完成の術式に見えた。
だが、欠けているのではない。
意図的に書かれていない場所がある。
《名前》
《身体》
《記憶》
《現在位置》
そのすべての中央に、大きな空白が残されていた。
「本人の答えを入れる場所」
ノノが呟いた。
セラが頷く。
「この層には、四つの役目があります」
彼女が手を近づけると、古い標識が一つずつ浮かび上がった。
《名前を失った意識を一時的に保護する》
《危険な層から安全な場所へ退避させる》
《偽の声と偽の記憶を分ける》
《本人の答えが戻るまで空白を守る》
ノノは標識を見つめた。
「高瀬さんにも使えるかもしれない」
「使えると思います」
セラは答えた。
「ですが、高瀬さんの記憶を戻す術ではありません」
「偽物を取り除き、本来の記憶が戻るまで守るための層です」
「無理やり思い出させるものじゃないんだね」
イデールが言った。
「うん。その方がいいよ」
ノノは別の分析官へ通信を繋いだ。
「高瀬さんの反応と、この層の保護条件を比べてもらえる?」
『了解しました』
「あと、現実側の身体固定層にも似た空白がないか、日下部さんへ確認をお願い」
『すぐに伝えます』
複数の分析官が作業を分担しているため、ノノは地下区画の解析へ集中できていた。
保護施設側の監視。
現実世界との通信。
王都各地の失踪記録の照合。
どれかに異常が出れば、すぐに呼び戻される。
それでも、一人ですべてを見るよりはずっと安定していた。
ノノは結界層の時間記録を調べる。
「エリウスが作った時の反応は、かなり古い」
「でも、上に重なってる白い痕跡は新しい」
ダミエが白い線へ指を近づけた。
「何年も前じゃない」
「どのくらい?」
「最近」
ノノは王都と現実側の境界変動記録を重ねた。
白い線が案内層へ触れた時刻を正確に読み取ることはできない。
だが、周囲に残る揺れの形から、ある程度の時期は絞れた。
「パイソンとレアが消えたあとだ」
部屋が静かになる。
あの時ーー
学園の校庭で葛原レアとパイソンが光の中、消えた。
その直後。
名前も身体も確認できない何かが、エリウスの案内層へ触れていた。
アデルが先ほど口にした疑問。
葛原レアが消えたあと、その身体や役割から離れたものが、この場所へ来たのではないか。
だが、まだ証拠はない。
「レア本人だったとは限らない」
ノノは自分へ言い聞かせるように続けた。
「パイソンの中にあった意識かもしれない」
「別の層を流れてた失踪者かもしれない」
「白い線が似てるだけで、reと同じだとも決められない」
セラも白い痕跡を見る。
「この層は、触れたものの名前を残していません」
「なぜ?」
イデールが尋ねる。
「名前を失ったものを守るための場所だからです」
セラは答えた。
「名前がないことを理由に、拒まないように作られています」
「優しいけど、調べる側には困るね」
イデールは少し寂しそうに笑った。
ダミエが言う。
「名前を記録したら、追われる」
「残さない方が安全」
「そうだね」
イデールは素直に頷いた。
その時。
地下研究区画の奥で、白い痕跡が突然強く光った。
ノノが水晶板を見る。
「何も操作してないよ」
ダミエも両手を結界から離す。
「私でもない」
白い線は案内層の中心から伸び、遠く離れた通信線へ触れていた。
王都外縁。
高瀬直人のいる保護施設。
そして、その場所にある一台のスマートフォン。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都外縁/保護施設・北側病室・夜】
高瀬直人は、寝台で眠っていた。
呼吸は浅いが、名前の反応は保たれている。
部屋の外では、ヴェルニが警備局員と交代で廊下を見張っていた。
アデルもすでに保護施設へ到着している。
「周囲の反応は?」
アデルが尋ねる。
「黒い点は一度引いた」
ヴェルニは窓の外を見る。
「でも、完全には消えてない」
「まだ見張られているか」
「だろうな」
リオは右手首の副鍵を袖の上から押さえている。
サキは高瀬の寝台から少し離れた椅子へ座り、スマホを両手で持っていた。
画面の中で、reが細かく震えている。
「さっきから変なの」
サキが言った。
「外じゃなくて、王都の方を見てるみたい」
ハレルが画面を覗く。
reの白い線は、建物の外へ出ていない。
画面の中で小さく円を描き、何かを探すように止まっている。
そこへノノから通信が入った。
『サキ、reに何か変化ある?』
「ある」
『やっぱり』
ノノは旧治療施設で起きた反応を説明した。
エリウスが残した案内層。
そこに残る新しい白い痕跡。
そして今、その層がreへ向かって反応していること。
リオが尋ねる。
「reを、そっちへ繋ぐのか」
『まだ繋がない』
ノノはすぐに答えた。
『どんな影響があるか分からないから』
『ただ、向こうの層から一方的に道を示してる』
reが強く光った。
サキのスマホの画面に、見たことのない標識が浮かぶ。
《安全》
《偽の声》
《空白》
エリウスの案内標識と同じものだった。
「reが出したの?」
サキが尋ねる。
『分からない』
ノノが答える。
『案内層の表示が、reを通して出てる可能性もある』
白い線が画面の中で伸びる。
高瀬直人へ向かうのではない。
彼の胸元に残る黒い観測痕の周囲を避け、何もない場所へ細い輪を作った。
セラの声が通信へ入る。
『高瀬さんの意識を、あの輪の中へ入れる必要はありません』
『今は道を重ねるだけで大丈夫です』
ハレルが尋ねる。
「何が起きるんだ」
『偽の声と、本人の記憶を分ける目印になります』
『高瀬さんが次に記憶へ触れた時、危険な方へ進みにくくなります』
アデルがreの白い輪を見る。
「エリウスの層が、ここまで届いているのか」
『層そのものではありません』
セラは答えた。
『reが、案内の意味だけを運んでいます』
リオが画面を見る。
「前から知ってたみたいに」
誰も答えられない。
reは言葉を持たない。
光り、震え、線を引くだけ。
それが過去の記憶によるものなのか。
ただ案内層の働きに反応しているだけなのか。
まだ分からなかった。
眠っていた高瀬が、小さく声を漏らした。
「帰らなければ……」
胸元の黒い観測痕が揺れる。
同時に、reが作った白い輪が淡く光った。
「次の駅で……」
高瀬の言葉が途中で止まる。
苦しそうに眉を寄せたあと、別の言葉が出た。
「違う……」
ハレルが息を呑む。
「何が違うんですか」
高瀬は目を覚まさないまま答えた。
「その声は……家族じゃない」
黒い観測痕の一部が、白い輪から押し出される。
ノノの声が強くなる。
『今の、案内層が偽の声を分けたんだ』
高瀬が繰り返していた言葉の一部には、本人の記憶ではないものが混ざっていた。
「帰らなければならない」
それ自体は本人の意思。
だが、転移時に聞いた「鍵を持つ者が来れば帰れる」という声には、
別の何かが混じっていた可能性がある。
Cか。
クロスワールドゲートの古い誘導音声か。
それとも、カシウス側が作った転移線の働きか。
現時点では分からない。
アデルが言う。
「今日はここまでだ」
「それ以上、記憶へ触れさせない」
ノノも同意する。
『うん。案内の輪だけ残して休ませて』
reの白い光が少し弱くなる。
だが、輪は消えなかった。
◆ ◆ ◆
【旧治療施設・地下研究区画/同時刻】
案内層の中央に、新しい線が浮かんでいた。
高瀬直人へ伸びた線。
そして、その隣、reへ伸びた線。
二本は重なっていない。
同じものでもない。
だが、互いの存在を確かめるように、近い場所で並んでいた。
ノノは記録を保存する。
《エリウス案内層》
《外部案内反応・確認》
《reとの同期可能性あり》
最後の項目には、確定を示す印をつけなかった。
「同期って書いていいの?」
イデールが尋ねる。
「可能性だけ」
ノノは答えた。
「reが案内層を動かしたのか」
「案内層がreを使ったのか」
「それとも、前から同じ道を知ってたのか」
「まだ何も決められない」
ダミエが二本の線を見る。
「形は違う」
「でも、目的は近い」
「迷ったものを、危険から離す」
セラはエリウスの層へ目を向けた。
「エリウスがreを作ったわけではありません」
「この層に、意識や人格を生み出す力はないからです」
「ですが、すでに存在していた何かを守った可能性はあります」
パイソンとレアが消えたあと。
身体も名前も役割も弱くなった、何か。
それがこの層へ触れ、一時的に守られた。
その後、どのような道を通り、サキのスマートフォンに現れたのか。
まだ分からない。
案内層の奥に、エリウスが残した最後の標識が浮かび上がった。
《答えが戻るまで、空白を閉じない》
セラは、その言葉を静かに見つめた。
ノノは水晶板を閉じなかった。
この層は過去の遺物ではない。
今も、名前を失った者のために働いている。
そして、reもまた。
失われた者たちへ続く道を、示そうとしていた。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
Cの画面に、二本の白い線が表示されていた。
一つは、エリウスの案内層。
もう一つは、re。
オルガが二つの反応を比較する。
「同一構造ではない」
白峰律が尋ねる。
「では、なぜ繋がった」
「片方が道を守る」
「もう片方が道を見つける」
オルガは冷静に答えた。
「働きが近いため、互いを認識した可能性がある」
カシウスは、reの白い反応を見つめていた。
「エリウスの層が、あれを作ったのか」
「不可能だ」
オルガは即座に否定した。
「あの層に意識を生成する機能はない」
「なら、守ったか」
オルガは答えなかった。
画面には、レアとパイソンが観測の穴へ消えた直後の記録が表示される。
その記録の端。
これまで意味のないノイズとして処理されていた場所に、細い白い線があった。
Cが告げる。
『過去記録との一致を確認しました』
『エリウス案内層への接触時期は、葛原レアおよびパイソン消失直後と推定されます』
白峰の表情がわずかに変わる。
「レアの残留意識か」
「まだ決めるな」
カシウスが言った。
「答えを急げば、見たいものしか見えなくなる」
Cの画面で、reが白い線を伸ばす。
その先には、高瀬直人だけではない。
暗い層の奥。
複数の弱い反応が、点のように浮かんでいた。
名前を失った者たち。
カシウスはその点を見る。
「消すな」
「追跡しろ」
『了解しました』
エリウスが残した案内層と、reの白い道。
二つが繋がったことで。
敵にもまた、失われた者たちの存在が見え始めていた。
コメント
1件
うわ、今回の話、めっちゃ良かった…!エリウスが残した案内層の設計思想、すごく丁寧に描かれてて惹き込まれた。「名前を失ったものを守るために、空白を残す」っていう発想がもう、優しくて切なくて。reがその層とリンクした場面はゾクゾクしたし、高瀬さんの「家族じゃない」って無意識の言葉が偽の声を分離した瞬間も鳥肌立ったよ。Cたちにも失われた者たちの存在が見え始めたラスト、次が気になりすぎる…!