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そんなある日
烏羽主任の家のベッドの上
背中に広がるシーツのひんやりとした感触が、ふっと現実味を薄れさせる。
俺は今、主任のベッドにいるんだ。
その事実が、信じられない気持ちと
ほんの少しの不安を、同時に胸に呼び起こす。
まるで夢の中にいるような、ふわふわとした感覚。
シャツのボタンが一つずつ、丁寧に外されていく。
そのたびに、肌に触れる主任の掌がやけに優しく感じられた。
指先が鎖骨をなぞり、胸元へと滑り落ちる。
甘やかすようなキスが首筋に落とされ、その湿った感触にぞくりと背筋が震えた。
吐息まじりの低い声が、耳元でくすぐるように囁く。
「……こんなに気持ちよさそうにして、可愛いな」
「……っ、主任……っ」
そんな言葉、ずるい。
ずるすぎる。
そんなふうに言われたら――
俺はきっと、また誤解してしまう。
恋人みたいにされると、どうしたって心が浮かれてしまうんだ。
主任の言葉や仕草の一つ一つが、まるで俺が特別な存在であるかのように錯覚させる。
でも、俺たちは……付き合ってるわけじゃない。
そんな言葉、一度も言われたことがない。
ただの「可愛い」が、どれだけ俺を揺さぶるか
主任は知っているんだろうか。
(この関係って、なんなんだろう……)
いつも、問いかけようとして
寸前でやめてしまう。
喉まで出かかった言葉を、無理やり飲み込む。
だって、「セフレ以外になにがある」なんて
もしも、もしもそんなことを言われたら
今みたいに優しく触れてくれることも
甘い吐息を耳元に感じられることも
その全てが、音を立てて壊れてしまいそうだから。
その底知れない恐怖が、俺の口を固く閉ざす。
この一時の温かさを失うくらいなら、真実なんて知りたくない。
耳の後ろを甘噛みされて、びくっと身体が跳ねた。甘い痛みが脳髄まで響く。
「……ん、ぁ……っ」
「…甘すぎ、全部喰っちまえそうだな。ほら、声我慢するな」
そんなの無理だ、って思うのに。
主任に触れられてると、身体が勝手に素直になってしまう。
理性では抑えきれない快感が、全身を駆け巡る。
ゆっくりと、奥まで繋がれていく感覚に胸の奥が熱くなっていく。
じんわりと、全身に血が巡るように熱が広がり
意識が遠のきそうになる。
(こんなに優しく抱かれるのに……どうして、俺のこと、何も言ってくれないんだろう)
苦しい
胸が締め付けられるような、切ない苦しさ。
でも
(……それでも、主任と繋がっていられるなら……っ)
「っ……好き、なんです……主任のこと……っ」
言葉だけが、ぽろっと零れた。
本音だった。
隠しきれない、心の叫び。
でも、それ以上は言えなかった。
この手を繋ぐために、何かを失うのが怖かった。
この曖昧な関係の均衡が崩れるのが、何よりも恐ろしかった。
だから、たった今だけでも
甘く溶けていられたら――それでいいって。
自分に言い聞かせるように、ぎゅっと目を閉じた。
この瞬間だけを、永遠に閉じ込めてしまいたかった。
気づけば正常位で抱き合っていた。
主任が上から見下ろすこの位置
いつもより近くに感じるその瞳が、俺をまっすぐ映していた。
深く、奥まで繋がっているはずなのに
それ以上に、心の奥まで見透かされている気がした。
その視線に、隠しきれない感情が暴かれていくようで、少しだけ恥ずかしくなる。
「……可愛いな、雪白は」
耳元で、低く囁かれるだけで身体の奥がぞくっと熱を持つ。
その声の響きだけで、全身の細胞が歓喜するようだった。
キスをされながら、主任の指先が頬をゆっくりとなぞる。
その優しい感触に、心がとろけそうになる。
腰をゆっくりと動かされるたび、快感と一緒にどんどん心が蕩けていく。
「……んっ、あっ……ん、主任……っ」
体重を支える主任の腕が、俺の肩の下でぎゅっと力をこめた。
それがたまらなく優しくて、愛しくて――
同時に、苦しい。
だって、こんなふうに、顔を見つめられながら
深く繋がって、キスまでされて。
これがただのセフレの関係だなんて、思えるわけがない。
まるで、本当に愛し合っている恋人のように。
(俺たち、恋人みたいだ……)
(でも、主任からは、何も言ってくれない)
付き合おう、とも。
好きだ、とも。
俺ばっかり、触れられて、満たされて
でも肝心の言葉がもらえない。
その事実が、胸を締め付ける。
苦しくて、苦しくて――
でも、全身を支配する気持ちよさが
その苦しさをかき消していく。
快楽の波に溺れて、思考が麻痺していく。
「気持ちいいか?」
「っ、う……はい……っ、すごく、いいです……」
答えると、主任は俺の額に唇を落としてきた。
そっと、髪を撫でてくれるみたいに。
その一連の動作が、あまりにも自然で
優しくて、まるで本当に大切にされているようで。
「苦しかったら言えよ……できる限り優しくする」
そんな優しい声、反則だ。
ますます俺は、セフレじゃないって信じたくなってしまう。
主任の顔が、ゆっくりと近づいて、また唇が重なる。
キスは深く、丁寧で
まるで心ごと繋がれてるようで。
そのキスに、俺の全ての感情が込められていくような気がした。
(もう、どうなってもいい……)
(どう思われててもいいから、主任と、こうして繋がっていたい)
この温かさが
この繋がっている感覚が永遠に続けばいいのに。
俺の脚の中で、主任がまた深く沈んでくる。
何度も、何度も、甘く満たされながら
俺は心の奥で、ずっと名前を呼んでた。
(烏羽さん……烏羽さん……っ)
行為が終わると、烏羽主任は丁寧に俺を車で家まで送ってくれた。
その気遣いが、また俺の心を揺さぶる。
マンションの駐車場に車を停める。
エンジンを切った主任が、俺のほうを見て小さく息をついた。
その横顔には、いつもと変わらない
少し疲れたような、でも穏やかな表情があった。
「……じゃあ、気を付けて帰れよ。戸締りしっかりな」
「……はい、ありがとうございました」
声が震えないように返事をするのが精一杯だった。
今日も結局――何にも変わらなかった。
優しく抱かれて、甘やかされて、でもそれだけ。
恋人みたいに大事に扱われて、でもそれ以上の言葉はもらえなくて。
この胸に残る、満たされない空虚感だけが
現実を突きつけてくるようだった。