テラーノベル
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平日の午後、太陽が少し傾き始めた頃
俺は繁華街の一角にある雑貨屋の前に立っていた。
隣には、烏羽主任。
休日出勤の代休を取った主任と、たまたまシフトが空いた俺が
ひょんなことから「一緒に出かけるか」という流れになって、今ふたりで出歩いている。
正直、この状況が信じられない。
いや、信じたくない、という方が正しいかもしれない。
俺の心臓は、まるで初めてのプレゼンに臨む新人のように、ドクドクと不規則なリズムを刻んでいる。
主任はいつも通りの落ち着いた様子で、隣を歩く俺のぎこちなさには気づいていないようだ。
いや、気づいていても、あえて触れないでくれているのかもしれない。
そのどちらにしても、俺の緊張は増すばかりだった。
笑顔は作っている。
つもりだ。
でも、きっと引きつっているだろう。
鏡を見なくてもわかる。
隣を歩く烏羽主任を、ちらちらと盗み見てしまう。
その横顔は、会社で見せる厳しさとは少し違って、穏やかだ。
休日の私服姿も、どこか新鮮で
それだけで心臓が締め付けられるような感覚に陥る。
頭の奥に、あの夜がずっと居座ってる。
──「また可愛がってやるから、もう泣くなよ」
あのとき、すがるみたいに抱きついた俺に
優しく触れてくれたその言葉。
嬉しかった。
でも、あれってつまり“また会える”ってことだけで、“好き”とか“付き合おう”とは、言われてないんだよね……。
……やっぱり俺って、主任のセフレなのかも。
だって、セフレってこういう関係だ
体の関係があって、それ以上のことは言わずに流して……
けど気が向いたときには優しくされて。
俺はただ、それに縋ってるだけで。
俺が勝手に期待してて、俺だけ主任と会えることに舞い上がってたとしたら……めちゃくちゃ恥ずかしい奴だ。
なのに、気になって、つい、聞いてしまった。
「……プライベートでも、俺といてくれるんですか……?」
情けないほどに震えていたと思う。
こんな質問、普通ならしない。
でも、どうしても確認したかった。
この状況が、一体何なのか。
俺にとって、主任はあまりにも眩しすぎる存在で
その光が強すぎて、現実感が掴めなかったのだ。
烏羽主任は、ゆっくりと振り返った。
その顔には、少しの驚きと
そして、小さく、優しい笑みが浮かんでいた。
その笑みを見た瞬間、俺の胸は一瞬で締め付けられた。
「そりゃ、恋人なんだから当たり前だろ」
その言葉は、まるで雷鳴のように俺の頭に響き渡った。
「へっ……?」
情けない声が裏返る。
頭が真っ白になって、主任の言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
恋人? 今、主任は「恋人」と言った?
聞き間違いじゃない?
俺の耳がおかしくなったのかな?
「……俺って、烏羽さんの恋人、なんですか……?」
信じられない。
心底驚いたように、またも声が裏返る。
俺の問いに、今度は逆に烏羽主任の眉がひそめられた。
その表情は、少し呆れているようにも見えた。
「逆になんだと思ってたんだ」
その問いに、俺は言葉に詰まった。
だって、主任からは「付き合おう」だとか
「好きだ」だとか、そういう言葉を一度も言われたことがない。
いつも、俺が主任の部屋に行って、そして
ヤった後には、決まって「また可愛がってやる」って言ってたし。
その言葉の響きが、俺にはどうしても「恋人」という関係性には思えなかったのだ。
「えっ? だ、だって烏羽主任に付き合おうだとか、好きだとか言われてませんし……初めてヤったあとに『また可愛がってやる』って言ってたし、恋人じゃなくて……俺、烏羽主任のセフレなんだとばかり……」
最後の言葉は、消え入りそうなほど小さな声になった。
主任の顔色を窺う。
怒られるだろうか。
呆れられるだろうか。
嫌悪されるだろうか。
様々な不安が、一気に胸に押し寄せた。
「なんだそれ……」
低く、呆れたように呟く烏羽主任。
でも、その声に責める色はなかった。
むしろ、少し困惑しているような、そんな響きがあった。
「……悪い、言葉足らずだったか?」
主任の言葉に、俺はホッと息をついた。
怒られなかった。
「は、はい……。だから今日とかも、てっきりホテル行くのかなって思ってて……そしたら普通に雑貨屋入るから、混乱してしまって……」
正直な気持ちが、堰を切ったように溢れ出す。
俺の頭の中は、さっきからずっと
「ホテル行ってまた抱かれるだけなのかな」という疑問符でいっぱいだったのだ。
「……セフレ扱いでホテル連れてかれると思って、さっきから様子が変だったのか?」
主任の鋭い指摘に、俺はビクリと肩を震わせた。
「え? へ、変でしたか?」
必死に平静を装おうとするが、きっと無駄だろう。
「だいぶな」
主任の言葉に、俺はがっくりと項垂れた。
やっぱりバレていた。恥ずかしい。
顔が熱くなるのを感じる。
「うう、すみません……っ」
耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。
情けない。
「……俺にセフレ扱いされるの、嫌なんだな」
主任のその言葉に、俺はハッとして顔を上げた。
嫌だ。嫌に決まっている。
烏羽主任には、もっと、もっと特別な存在として見られたい。
恋人として、隣にいたい。
その気持ちが、抑えきれずに溢れ出した。
「……! いや、です……っ、烏羽主任には……っ、恋人扱いされたいですから……っ」
潤んだ目で、まっすぐに烏羽主任に訴えかける。
恥ずかしさなんて、もうどうでもよかった。
この際、全部伝えたかった。
俺の、烏羽主任に対する本当の気持ちを。
その目を受け止めながら、烏羽主任はふっと目を細めた。
その表情は、どこか優しくて
そして、少しだけ、嬉しそうに見えたのは俺の気のせいだろうか。
「……可愛いやつだなほんと。言われなくてもセフレ扱いなんかしない、安心しろ」
その一言が、俺の心に深く、深く染み渡った。
目が見開かれ――すぐに、視界が滲む。
烏羽主任の言葉は、俺の胸の中にあった不安や疑念を一瞬にして溶かしていく。
セフレなんかじゃない、恋人なんだ。
その事実が、どれだけ俺にとって大切か。
言葉にならない想いが込み上げてきて、涙腺が緩む。
烏羽主任は、俺の涙に気づいたのか
少し困ったように眉を下げた。
しかし、その表情は優しさに満ちていて
俺の心を温かく包み込む。
「泣くほど苦しませてたなら悪かった」
揶揄するような口調だが、その声には以前のような距離は感じられない。
まるで、ずっと前からこうだったかのように自然に俺の隣に立っている。
「だって……っ、信じられない、です……っ」
上手く言葉が出てこない。
でも、俺の気持ちはきっと伝わっているはずだ。
烏羽主任はそんな俺の頭を、ふわりと撫でた。
「お前は本当に分かりやすすぎ。まあ、それが可愛いんだけどな」
その言葉に、また顔が熱くなる。
嬉しいような、恥ずかしいような
複雑な感情が入り混じる。
でも、やっぱり嬉しいが勝る。
「さて、そろそろ店入るか。欲しいもの、あるだろ?」
烏羽主任はそう言って、改めて雑貨屋のドアを開けた。
その背中は、以前よりもずっと大きく
頼もしく見えた。
俺は慌てて烏羽主任の後を追う。
店内に足を踏み入れると、様々な雑貨が所狭しと並べられていて
見ているだけで心が躍る。
烏羽主任は興味深そうに商品を見て回っている。
「雪白、これお前に似合いそうじゃないか?」
烏羽主任が手に取ったのは、可愛らしい動物のモチーフがついたキーホルダーだった。
確かに俺好みだ。
「あ、いいですね!って、主任主任!これも良くないですか!?」
「今は主任って呼ぶな、デート中ぐらい名前で呼ばれた方がいい」
「…!あっ、はい…っ、じゃあ…たけるさん、で」
「おう」
自然と会話が弾む。
俺の心の中は、温かい光で満たされていた。
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