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今やライゼン大王国に下った西部沿岸都市国家の一つ曙光の帆群だが、海を越えて様々なものを運ぶ潮風の匂いは変わらない。運び込まれることは減り、運び出されることが増えたが、荒れる冬を前にして最後の稼ぎを得ようと東西を奔走する交易船の白い帆が厳めしげに棚引いている。
男は海を目の端に、街の中心街へと坂路を急いで下っていたのだが、ふと立ち止まり、振り返る。何者かに追われているような、何者かに監視されているような不吉な気配を感じたのだった。
大きな街だ。郊外とて人通りは多く、誰に尾行されていたとしても分からない。男はまとわりつく気配を振り切るように先を急ぐ。
男は銀嶺《ローノス》といった。アミアルーグ市において名高い大船主の家系の長男だ。北極海を越えてトーキ大陸や果ては西回りにナタノク列島までを行き来する海上交易船をいくつも保有する一族は数世代まえから海運業にも直接手を出し、投資などなくとも東西の文物を恣にするガレイン商人の雄だ。その若旦那として味方も敵も多いことは自覚していたが、今はそのようなものに気を留めていられなかった。
行き着いたのは船乗りを相手にする大衆食堂の一つだ。内陸部ではいくら金を積んでも得られない新鮮な魚介が、目と鼻の先に港を臨む食堂にはありふれている。ただし、それでも富裕層の御曹司ともいえるローノスがうろつくにはいささか具合の良くない地域だ。海賊崩れも混じる屈強な船乗りや耳なじみのない言語を操る外国の魔術師は慣れない土地でただでさえ気が立っている。その上ライゼン大王国の支配下にある街では、彼らとて気の抜けない相手、武装した戦士たちがうろついていた。
「ここには来ない方が良いって言いましたよね!?」
ローノスが食堂の席に着くなり、足早に近づいてきた給仕の女がローノスに耳打ちした。
「心配無用さ。うちに出入りしている者も沢山いる。君が思っているよりも僕は顔が利くんだよ」
「そうかもしれませんが、心配無用だなんて言わないでください。悲しくなります」
「夜の波頭の囁き。君に会いたくて居ても立っても居られなかったんだ。君は? 君は僕に会っても嬉しくないのか?」
「嬉しいです。嬉しいですが……」
ネーベーラのその曇った表情はただ恋人の身を案じているだけではないことがローノスには直ぐに分かった。
「けど、どうかしたのか? 何か心配事?」
「心配事? そう、心配事です。貴方こそ心当たりはありませんか?」
不意を打たれてローノスは言葉が詰まる。恋人に何かを疑われている。何を疑われているのか、そんなものは相場が決まっている。が、ローノスには心当たりが本当にないので気づかないふりをする。
「何もないよ。仕事も君との関係も順風満帆だと、そう思っている」
「そう。それなら良いのですけど」
「はっきり言っておくれ。僕にどんな心当たりがあると思ったんだ?」
「はっきりとは言えません。私も、ただ、噂を聞いただけですから」
「噂ね。何の噂だか知らないけど、要するに他人の言葉さ。気にする必要はないが、是非払拭してやろうじゃないか。一体どんな噂なんだ?」
ローノスがネーベーラの細い指と腕を取る。
「……貴方が他の女と一緒にいて、仲睦まじくしている様子を見たと」ローノスが口を挟もうとしたがネーベーラは続ける。「お姉さんじゃないことは分かっています。もう一年も前に嫁がれましたから。私の知らない社交なんていくらでもあるのでしょうけれど、その人はガレイン人にさえ見えなかった、と」
喧嘩、というほどでもないが嫌疑を晴らせなかったローノスを前にしてネーベーラの心の窓は閉ざされてしまった。叩いても開かれず、覗き込んでも誰も見当たらない。
噂の出所を掴みたいところだが、ネーベーラの言う通り、貴族との交流さえある富豪の一族の次代当主にはその類の誘惑が辺りをうろつく。いくら穏当に追い払ったところで蛇か蛞蝓のように音も立てずに近づいて来るものだ。それは現当主である父かあるいは母の差し金なのだろうが、元々姉にも弟にも大して関心を抱いていなかった、海上交易と行き来する品々に心を奪われている二人のことだ。子の伴侶に誰かを強く推すこともなければ、ネーベーラに反対することもないだろう、とローノスは確信を持っている。ただ富裕層の親の務めを感慨のない義務感で果たしているだけなのだ。だから、このような噂の火元なのだとしても一々否定していてはきりがない。
であれば噂など掻き消されるような真実を発信することこそが真の恋人の役目だろうとローノスは決意する。
その日、ネーベーラが仕事を終えた後、ローノスは恋人らしいことをまるで人々に見せつけるように街に繰り出した。手を繋いで劇場や宴会に顔を出し、ネーベーラを褒め称えては多くの品々と共に詩を贈る。後は帰った後で適当な奉公人に手紙を運ばせたようと考えていた。
いかにも浮気者が悪癖を誤魔化そうとしているようではないか、と思わないでもなかったが噂を立てるような第三者には十分なはずだ。
夜も更け、住み込んでいる食堂にネーベーラを送り返す道すがら、少しは気が晴れたらしいネーベーラがふと足を止める。
「どうした?」と問うも返事はなく、ローノスはその固まった視線の先を追う。
「あの人です。間違いありません。噂に聞いた人です」
灯火の外にいて顔つきは分からないが、背の高い女だ。街路の端で漆喰の壁にもたれかかり、こちらを見つめている。分厚い外套を着こんでいるが、ガレインで一般的な毛皮ではない。だがこの港町アミアルーグではさほど珍しくもない。しかし少なくともローノスには見覚えのない人物だった。
ちらとネーベーラに視線をやるとローノスに向けられたその眼差しには疑念が込められている。
「知らない女だ」とローノスの口を突いて出る。
「あちらはそう思っていないようですが」
ローノスは裏切りのないことを示すように握っていたネーベーラの手をしっかりと掴んだまま謎の女の元へ向かう。
「君、一体何者だ? 噂については知っているか? 迷惑しているんだが」
女は紫の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「私の噂ですか? 知りません。どんな噂ですか?」
「君というか、僕というか。僕と君に何かしらの関係がある、とあらぬ疑いを抱かれているんだ」
「何かしらの……、あらぬ疑い?」と女は首を傾げる。
「分からん奴だな。浮いた噂というやつだ。僕にはれっきとした恋人がいるというのにな!」
「恋人、ですか。そちらの方ですか? お二人はいつから恋仲に? お姉さんは彼のどこを好いているんです?」
「おい! 何だというんだ!」ローノスは声を荒げずにはいられなかった。「何故お前にそんな話を聞かせてやらねばならない!?」
「ああ、すみません」と女は愛想笑いをして一歩退く。「私もそんなことには興味がないんでした。それよりお兄さん。お兄さんは魔法使いかその類ですか?」
唐突に話の矛先が変わり、ローノスも面食らう。
「一体何の話だ。魔法? 僕がその類に見えるか? むしろお前の方がよほど魔に通じていそうだがな」
「も、もういいですよ」とネーベーラがローノスの手を引く。「とにかく貴方とは何の関係もない人だということは分かりましたから。行きましょう?」
未だローノスの怒りは収まっていなかったが、少なくともネーベーラの誤解が解けたなら何も問題はない。噂はそう簡単に消えないだろうが、恋人さえ信じてくれていたなら良しとした。何よりこれ以上おかしな女と関わり合いにはなりたくなかった。
二人は怪しげな女に背を向け、その場を離れようとしたが、女は離れ行くその背中に声をかける。
「噂といえば、私も一つ噂を聞きました。ネーベーラには将来を誓い合った恋人がいるのに、どうしてローノスに乗り換えたのだろう、と」
ローノスは顔を真っ赤にして振り返る。その瞳には怒りの炎が燃え滾り、血と共に全身を巡る。
「それは侮辱と受け取ればいいのか?」
女は少しも遠慮することなく淡々と付け加える。「金に靡くような女ではないのに、つい最近まで下町まで降りてくることのなかった御曹司様とどこで接点を持ったのだろう、と」
ローノスは怒りに突き動かされ、拳を固めて女の方へと踏み出す。
その時、ネーベーラが悲鳴をあげる。ローノスが振り返ると恋人は別の女に拘束されていた。同じくらい背が高く、ずっと体格が良い銀髪の女が羽交い締めにし、ずっと背の低い赤髪の女がネーベーラの胸元に手を突っ込んでいた。
「やめろ! 何をしている! 何なんだ、貴様ら!」
すぐに戻ろうとしたローノスにまた別の女が近づいてくることに気づき、身構える。そして目を疑う。
「姉様?」ローノスは声を絞り出す。「どうしてここに?」
「あら、お姉さまがお嫌いなのですか?」とローノスの姉らしき女が呟く。「事情は詳しく知りませんが、貴方が何をやっていたのかは概ね分かっています。大人しくしていただけますか?」
「ちが、僕は、かの、彼女を心から――」
「あった!」と赤い髪の女が声をあげる。その指先には三日月形の札がつままれている。「証拠は上がったし、こんな男、焼き殺してもいい?」
「さすがに、殺すのは……」と噂になった背の高い女が歯切れ悪くも制止する。「駄目だと思う」
「勝手に恋仲にされた当人に任せるのが一番だが、気を失っているようだ」とネーベーラを羽交い絞めにして、今は介抱している女が言った。「だが、証拠は我々が持ち去ることになる。その後では泣き寝入りになるだろうな」
「ま、待ってくれ」とローノスが縋り付くように言う。「勝手にネーベーラに貼り付けたのは謝る。悪いことだと思っていたが、血の通った体を与えたかったんだ。だけどその札の魔性は僕の恋人なんだ。返してくれ!」
「あら? そういう話ですか?」とローノスの姉らしき人物が首を傾げていった。「てっきり思いが募って封印を利用したのかと思っていましたが」
赤髪の女は何も言わずに札を石畳に貼り付ける。すると石畳が古い洞窟の石筍のように盛り上がり、形を変え、人らしき形に成った。それと同時に憑代になっていた女、ネーベーラもまた目を覚ました。そしてその二人ともがローノスを睨みつける。
「ネーベーラさん、一応確認なんですけど、ローノスさんと恋人だったんですか?」と噂の元になった女がネーベーラに尋ねる。
「違う。何か紙切れを貼られたと思ったら、体が思うように動かなくなって」と吐き捨てるようにネーベーラは答えた。
ローノスは苦渋に満ちた表情で呻き声を漏らし、所業を否定するように首を振る。
赤髪の女が舌打ちをし、ローノスを睨む。「一度命令すれば一生従うんだと思ってた? 屑な上に魔導書の検証も不十分な馬鹿。禍根は焼き尽くすのが一番だよね」
「まあ、待て。ベルニージュ」とネーベーラを介抱する銀髪の女が言う。「当人はもう一人いる」
皆の視線が石の体を得た使い魔に集う。
「ごっこ遊びに付き合わされるのは腹立たしかったですが、私は正直なところ、これより酷い人間に利用されたことが何度もあるのでもう慣れたものです。でもせっかくですから色々試してみたい魔術があるんですけど、いいですか?」
「いいね!」とベルニージュと呼ばれた女が乗り気で答える。「あんたとは気が合いそう。名前は?」
「描く者。好きなものは落書き。一度人間を画布にしてみたかったんです」
ローノスは背を向けて走り去り、逃亡を試みた。