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第1話 人の形じゃなくても
「お前、まだあの霊獣と付き合ってるのか」
仕事の手を止めず、男は同僚を見た。
「番だ」
「それは知ってる。けど、まだ人型化してないんだろ?」
「してない」
「なんで、っていうか……人型化してない相手と、よく続くなと思って」
男は書類を置いた。
「人型化したら、番を替えるのか?」
「いや、そういう意味じゃない」
「なら、どういう意味だ」
「生活も違うだろ。会話だって――」
「通じてる」
「声がなくてもか?」
「人語がないだけだ。俺たちは香波で話してる」
「そうは言っても、お前ばかりが合わせているように見えるんだ」
「俺が獣型になる日もある。あいつが獣型だから仕方なく合わせてるんじゃない。俺たちが、その時に過ごしたい姿を選んでる」
「でも、人型同士ならもっと――」
「俺たちの間に何が足りないのか、逆に教えてくれ」
同僚は答えられなかった。
*
巣へ帰ると、大型の黒い霊獣が扉の前で待っていた。
男が中へ入るより早く、鼻先が首筋へ寄せられる。外でついた香を確かめ、額を胸元へ押しつけてきた。
「ただいま」
――遅い。
声ではない。黒い霊獣の香波に乗った意思が、男へ明確に届く。
「悪かった」
男は黒い額へ自分の額を重ねた。
男が肩を回すと、黒い霊獣の鼻先がそちらへ動く。
――肩を痛めたか。
「怪我じゃない。少し凝ってるだけだ」
黒い霊獣が身体の横を空ける。男が背を預けると、黒い身体がしっかり支えた。
「お前は温かいな」
黒い尾が、男の脚へ重なる。
支えているのは、いつも男だけではなかった。
食事の時には、黒い霊獣が自分の器から肉を一切れ取り、男の方へ押しやった。
「俺は食べた」
――嘘だ。昼の食事の香がない。
「……昼を抜いただけだ」
――食べろ。
肉をさらに押しつけられ、男は息をつく。
「分かった。食べる」
それでようやく、黒い霊獣も自分の食事へ戻った。
食事を終えると、黒い霊獣はいつもの寝床へ横たわった。男はその隣へ座り、乱れた毛並みを指で整える。
黒い霊獣が身じろぎし、触れてほしい場所を男の掌へ押しつけた。指がそこへ沈むと、満足の香波が返ってくる。
同僚との会話を、黒い霊獣は知らない。
男も話すつもりはなかった。
二人の生活について、二人が確かめ直す必要などなかった。
夜が深まると、触れ合いは昼間より親密なものへ変わっていった。
男は上衣の紐へ手をかけた。
一つずつ解き、布を厚い肩から落とす。腰の紐もほどき、脱いだ衣を寝床の端へ重ねた。
黒い霊獣は、その一連の動作を見慣れていた。
衣を脱ぎ終えた男の胸元へ鼻先を寄せ、露わになった肌から番の香を確かめる。
男は黒い首筋へ腕を回し、背の毛並みへ指を沈めた。
「このままの方が、お前を細かく満足させてやれると思うが」
――その手で触れられるのも好きだ。
黒い霊獣の香波とともに、温かな鼻先が男の胸へ触れる。
――だが今日は、お前も獣型がいい。
「……今日は、俺もこっちがいいのか」
――そうだ。
「分かった」
男は説得しなかった。
灰銀の光が裸身を包み、寝床へ大きな霊獣が降り立つ。
黒い霊獣はすぐに身体を寄せた。灰銀の霊獣も首筋へ鼻先を埋め、その香を深く吸い込む。
――これでいいか。
灰銀の香波へ、黒い香波が重なる。
――これがいい。
二頭分の香と熱が満ちた巣で、夜は静かに更けていった。
*
翌朝、男は腕へ触れる重みで目を覚ました。
黒い霊獣が、いつものように前脚を乗せている。
その輪郭が、一瞬だけ揺らいだ。
爪の間へ細い光が走り、前脚の先が五つに分かれかける。
黒い霊獣が脚を引いた。
――見たか。
「ああ」
――何だ、これは。
「分からない。調べてもらおう」
男は起き上がったが、引かれた脚へ勝手に触れようとはしなかった。
*
天灯共同医療福祉院では、まず黒い霊獣本人へ触診の可否が確認された。
差し出された確認札を、黒い前脚が押さえる。
許可を受けた職員だけが身体へ触れ、魂相と香の流れを調べた。番は隣にいたが、本人に代わって答えようとはしなかった。
やがて職員が記録板から顔を上げる。
「魂相の輪郭が、人型へ寄り始めています」
黒い霊獣の尾が、床の上で止まる。
「これは――」
「人型化の兆候が出ています」
室内に沈黙が落ちた。
黒い霊獣は、自分の前脚を見た。
――俺は、人型になるのか。
番へ向けられた香波は、問いの形をしていた。
「まだ兆候だ。決まったわけじゃない」
男はその隣に立ったまま、よかったな、とは言わなかった。
コメント
1件
おお…これは…めっちゃ良かった。人型化してない霊獣との番、しかも会話すら香波っていう匂いとか意思で通わせてる日常の描き方が丁寧すぎて泣ける。「支えているのはいつも男だけじゃなかった」って地の文、グッと来たわ。最後の「よかったな、とは言わなかった」に、男の複雑な気持ちが全部詰まってて、続きが気になる…。静かなのに熱い、好きな空気感だ🔥