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簡易的なまえがき
こんにちは、数年経って帰ってきた私です。
数年前の小説見て黒歴史すぎて悶えています。もう、もうやめてくれ(自爆)
この小説は一次創作の百合小説です
主人公の「ゆき」と、逃げ出した先で出会う少女「つきみ」の切なくて甘く、そして少しおぞましい物語です。
一 邂逅
「行ってきます」
返事は無い。当たり前だ。毎朝する儀式のような「行ってきます」の挨拶。この世の大多数の人間にとっては暖かい挨拶だろう。「行ってきます」と言えば「行ってらっしゃい」が返ってくる。家族が玄関で、やわらかい笑みを浮かべて手を振る。きっとこれが世の言う「当たり前」なのだろう。
私にとっては、それは「当たり前」ではなかった。私が中学に上がる前は、私も家族と共に過ごしていた。父、母、妹のすみれ、私の四人家族。一見、平穏で暖かい日常が流れているように思えるだろう。しかし実態は違った。私が「行ってきます」と言っても「あぁ、そう」と返されるだけ。手も振られない。笑いかけてももらえない。随分うざったそうな顔で、冷たい返事をされるだけ。
だが、すみれは違った。私と比べて優等生、成績優秀、運動神経も良くて要領もいい。人に愛されていて、と挙げればキリがない。すみれが「行ってきます」と言えば、父と母は微笑み、「行ってらっしゃい!忘れ物はない?気をつけてね」と声をかける。恐ろしい程に優しく、甘ったるい声で。いや、そう感じるのは私だけかもしれない。「当たり前」の生活を送ってきた「普通」の人達なら、「暖かい、普通の日常だね。微笑ましいな」と言うのかもしれない。あの声が恐ろしく甘ったるく聞こえたのは、私が両親から邪険に扱われていたからかもしれない。
私を邪険に扱うのは両親だけではなかった。すみれもそうだった。テストの成績開示があるたびに、すみれはいつも私を嘲《あざけ》り、罵った。そして、いつも決まって最後にこう言うのだ。
「まぁ、せいぜい頑張りなよ。劣等生さん」
言い返したいのもやまやまだったが、すみれの言うことはいつも的を射ていた。言い返す気にもならなかった。私とすみれの出来の違いをひしひしと感じさせられた。それでも、あの冷たい家の片隅で、私はひっそりと息をしていた。
そんな日々が過ぎ、私は中学校に入学した。私と毎朝顔を合わせ、世話をするのが相当嫌だったのだろう。両親は私を全寮制の学校に入学させた。そう気付いた時、私の心の中は微妙な寂しさと開放感で満たされた。あれだけ私を苦しめてきた両親にも寂しさを抱くなんて、人間とは不思議なものだ。
寮に入って、苦しみからようやく解放された、と思っていた。本当の地獄の始まりはここからだった。私は中学のクラスに馴染めなかった。加えて、成績もあまり振るわず、運動神経も話題に上がるほどでもない。いつしか、クラスメイトは私を避けるようになっていった。噂が広がっていたのか、学年が上がっても私に話しかける人はいなかった。おかげで友達という友達を一人も作れず、中学三年の今に至る。
まぁとやかく言っていても仕方がない。どう足掻こうと私は今日学校に行かなければいけない。友人のいない中学生活は非常に大変だ。移動教室も、授業中のグループワークも、ずっとひとりで凌いできた。もう慣れてしまった。今日も誰とも話さず、大勢の中なのにひとりぼっちという矛盾した状況で生きていくのだろう。考えるだけで涙が出そうだ。私も、みんなと一緒に笑い合いながら他愛ない話がしたかった。一緒に買い物に行きたかった。長期休みに遊園地に行ったり、放課後に誰かの家に集まってお菓子パーティをしたりしてみたかった。残念ながら、これは全て叶わぬ願いになってしまった。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
そんな様々な思案を巡らせながら、学校への道を歩く。私の住む寮は学校から近く、少し考え事をしながら歩いていたら直ぐに着いてしまう。普通なら喜ぶところだが、今の私にとってはその事実が忌々しく感じられた。あはは、と笑いながら校門に駆けていく少年少女の声が頭に響く。ああ、なんて純粋な笑顔だろう。クラスメイトの前で曖昧な笑みを浮かべる私のそれとは訳が違う。こうやって、学校に行くと何処を見ても劣等感に襲われる。だから私はいつになっても学校が好きになれないのだ。
一度息を吸って、教室のドアを開ける。いつもならクラスメイトの数人がこちらを一瞬見て期待外れといった顔をする程度だ。が、今日は何かが違った。クラスの目立つ子の集まる、所謂《いわゆる》「陽キャ」グループのうちの数人がくすくすと笑いながら私を見ていた。どうして。いつもなら私を居ないものとして扱うのに。彼らに何かした記憶もない。その事実が余計に不安を煽った。どうか、勘違いであってほしい。
とりあえず見なかったふりをして席に座る。まだ、笑われている。本を読むふりをして、震えながらホームルームの時間が来るのを待つことしかできない。本来ポジティブな意味を持つべき笑い声がこんなにも怖いものになる日が来るとは思いもしなかった。
そんな思いで耐えていた時、私にとって死刑宣告にも等しい一言が聞こえた。聞こえてしまった。
「ゆきってさあ、なんか根暗だしパッとしねえよな。『根暗ちゃん』って感じで!」
どうやら、勘違いでもなんでもないらしい。嫌な予感が見事に的中してしまった。本当に当たってほしくなかったが。絶望する私をよそに、彼らは言葉を続ける。
「あ〜。わかる〜。でもさぁ、いじりがいありそうじゃない?」
やめて。どうして私なの。
「『根暗ちゃん』って呼ぶのどう〜?」
どうして私をこれ以上苦しめるの?
「まあ、あいつ根暗で目立たなかったし丁度いいんじゃね?むしろ、俺らに『根暗』ってキャラもらったようなもんなんだし喜ぶべきだろ〜!」
何をしたらそんな思考に至るんだ。
「根暗ちゃん、妹いるらしいよ。しかも妹ちゃんは超優等生なんだって!ってなると、本当に根暗ちゃんってパッとしないよね。本当に姉妹なのかな?」
「あはは!マジで『根暗劣等生』じゃん!」
ああ、神様なんていないんだ。
ようやくホームルームが始まる時間になったが、それどころではなかった。先生の話が全く頭に入ってこない。笑い声が頭に反響し続けている。もう笑い声は止んでいるはずなのに。視界が滲んでいく。怖い。この先に何があるのか考えたくない。五分後のことを考えるのすら億劫《おっくう》になる程、私は追い込まれていた。これに耐えられるほど、私は強くない。
こんな状況になっても、私には助けてくれる人なんていない。ああ、両親はこんな状況の私を見て「自業自得だ」と言うだろうか。すみれなら、「あはは!劣等生さん、とうとうここまで来たんだ!かわいそ〜」とでも言って私を嘲るだろう。確実なのは、両者共に私を助けてはくれないということだけだ。
私がこうやって家族のことを考えて現実から目を逸らしている間に、どうやらホームルームが終わったらしい。周りのクラスメイトが一斉に席を立つ。私も遅れて席を立ち、とりあえず頭を下げた。
その時、後ろから薄ら笑いが起こったのを、私は聞き逃せなかった。
これが本物の地獄の始まりだと悟った。クラスメイトに避けられるどころではない、本物の苦しみという名の獣が私を殺そうとしている。私は抵抗も碌《ろく》に出来ず、喰い殺されてしまうのだろうか。そう考えただけで、身の毛のよだつ思いがした。この後の授業は、なんだっただろうか。数学だったか。なんにせよ、私は碌に授業を受けられないだろう。
どうせ受けられないなら休んでしまおうか。いや、休めない。さっきまでの出来事が鮮烈すぎて忘れていたが、私は成績が振るわないのだ。ただでさえテストの点がひどいのに、授業を休みなんてしたら。寮費はおろか、学費まで払ってもらえなくなるかもしれない。そんなことになったら、とうとう生活が立ち行かなくなる。中学生のこの身を雇ってくれる場所なんてそうそうないだろう。
「出るしか、ないかぁ。」
周りに気づかれないように、吐き出すように呟いた。
とりあえず準備をして、席につく。教科書を読んで落ち着こうとするが、気を抜いたら泣いてしまいそうだ。今見ているページに何が書いてあるかすら読めない。予習をしないと授業についていけないのだから、読まないといけないのに。
滲んだ涙を拭いて、教科書の内容に目を移す。今日やる内容は恐らく、単元の中で最も踏み込んだ内容のはずだ。この単元の基本的な内容も分かっていないのだから、尚更わかるはずがない。本当は復習をするべきだろうが、そんなことをしていては今日の内容の確認ができない。四面楚歌、とでも言うべきな状況だ。ただでさえ朝の出来事で気が重いというのに。
教科書を読み終わらないうちに、鐘は無慈悲にも鳴り響いた。今度は遅れないように挨拶をする。机についた手が震えている。椅子に座っている感覚すら曖昧に感じる。先生が口を開くまでが随分ゆっくりに感じられる。
「今日は、高校の先取りとして、不等式の場合分けを…」
聞き取らなきゃ。聞いて書きとらなきゃ。そうやって必死に話に追いつこうとしているうちに、授業はどんどん私を置いていく。
「……が…になるというわけです。それでは、五十四ページの練習問題を解いてみましょう。どうぞ。」
理解がうまく及ばないうちに、練習問題を解かなければいけなくなった。はやく解かないと。指されたら最悪だ。ここまで来るとむしろ間に合わなかったと言った方がマシに思えてくる。でも、そう言った時のリスクを考えると、そうするわけにもいかなかった。とにかく形にしないと。
「あんたもう終わったの〜?早くな〜い?」
後ろから、私を笑ったグループの話し声が聞こえる。正直怖くて仕方ない。普段ならもっと落ち着いて問題が解けたはずだ。他者からの嘲笑は、こんなにも人を神経質にしてしまう。そういうところも含めて、それが怖くて仕方なかった。
「終わりにしてください。」
なんとか形になった。正解だといいのだけれど。
「今日は二日だから…」
心臓が跳ねる。何せ、私の出席番号は二十二番なのだ。どうか。どうか私を見ないで。
「あれ、今日二番の人も十二番の人もいないの?休み多くてやだねえ。」
最悪だ。出席番号と日付で生徒を指名するシステムを考えついた人を恨んだ。
「じゃあ二十二番は…あ、居るね。それじゃあゆき、黒板に書いて。」
今、誰かが笑った。クスッ、と声がした。声のした方を見遣る勇気は出なかった。
震える手で、黒板に答えを書き込んでいく。チョークの表面のざらっとした感触が忌々しくなる。時々字の形が崩れる。何度も消して書き直す。
やっとの思いで書き切った。正面を向いたその時、クラスメイトの何人かが顔を顰《しか》めているのが目に入ってしまった。
「えーと、まず基本のここが違いますね…」
また、笑い声だ。恥ずかしさと悔しさ、劣等感でただ謝ることしかできなかった。
「ここは三を代入して、それから…」
怖い。でも、助けも望めない。
「はい…すみません」
笑い声は止まない。
「え、こんな問題も出来ないんだ。うける」
もう、本当に最悪だ。どうしてこういう日に限って私が指されるんだ。顔を顰められるくらいなら何度もあったから耐えられた。耐えてきた。でも。こんな仕打ちがあっていいのだろうか。
「もういいです。席に戻って。」
「…はい。わかりました」
それからどうやって午前の授業をやり過ごしたかはよく覚えていない。ただ覚えているのは、「ずっと笑われていた」ということだけ。給食の味がしない。思考がまとまらない。今日の献立は私の好きなものが多いはずなのに。何をしていても視線を感じる。笑われている気がする。関係のないクラスメイトの笑い声でさえ怖い。彼らにはなんの罪もないのに、彼らを恨んでしまいそうになる。自分自身も、クラスメイトのことも、先生のことも、学校のことも、全てが嫌になる。此処に私の居場所も、私を助けてくれる人もいない。分かってはいたが、改めて脳内で言葉にすると余計に絶望感が増す。考えるべきではなかった。
ほぼ味のしない食事を済ませて、机で本を読む。正確には読むふりだが。聞こえてくる喧騒《けんそう》をシャットアウトしようと、懸命に本の上で視線を滑らせる。どうしたってこの精神状態では読めやしないのに。焦った心は、余計に周りの音を拾い上げてしまう。
「今日の一時間目のあいつ、マジ面白かったよな〜」
…確実に私のことだ。一時間目に痴態を晒したのなんて私くらいしかいない。また何か言われるのだろうか。笑われるのだろうか。嫌だ。怖い。吐き気が込み上げる。頭痛がする。逃げなくては。今逃げなかったら、私が壊れてしまう。
気付けば、私は廊下に出て走り出していた。後ろから笑い声が聞こえる。それでも、なりふり構わず走り続けた。息が上がる。肺が痛い。でも走るのをやめてしまったら私の何かが壊れてしまう。
私が向かったのは保健室。先生に頭痛と吐き気の旨を伝えて早退することにした。先生が心配そうに私の顔を覗き込む。先生に軽く頭を下げて保健室を出た。また迷惑をかけてしまった。申し訳なさでいっぱいだった。
憂鬱な気分で昇降口を出る。外はあいにくの雨の様だ。朝の天気予報では雨が降るなんて言っていなかったのに。本当についていない。もちろん傘も持っていないので、意を決して寮まで走った。
「…ただいま。」
もちろん、返事はない。からっぽの部屋に、私の声が虚しく響くだけだ。とりあえずシャワーを浴びないといけない。が、シャワーを浴びる準備をする気にもならない。このまま何も考えず布団に身を沈めてしまいたい。
昔から、私はシャワーの時間が苦手だった。シャワーを浴びている時は、どうしても憂鬱な方向に思考が傾いてしまう。明日もこの様子なんだろうか、私はこのままずっと幸せを知らずに死んでゆくのだろうか。考えだしてしまってはキリがない。かといって、このまま布団で眠れず時間を浪費するのも本意ではない。時計を見ると帰宅してからもう二時間も経っていた。焦りを感じた私は、覚束ない手つきで支度を始めた。
とりあえずシャワーは済ませた。髪も一応乾かした。本来なら何かを食べなければいけない時間だが、そんな気は勿論起きない。冷蔵庫になんの食材が入っていたかすら定かではない。そういえば最近あまり家でものを口に入れていない。仮に冷蔵庫に何か入っていたとしても、もう腐っているだろう。掃除も洗濯も何もしていない。する気にもならない。こんな有様で私は明日学校に行けるのだろうか。たぶん、無理だろうけど。どうせ今日も寝られない。体調が悪いのに眠れないとなると回復は見込めない。でも少しでもマシな成績を取らないと。もう私には後が残されていない。また八方塞がりだ。
時計の短針が三を指す頃には、もう考える気も失っていた。ただ虚に天井を見つめる。朝日が怖い。後残り数時間で、朝日が学校に行けと私を脅しにくる。布団から剥がそうとする。否が応でも私を叩き起こす。朝がどうか訪れませんように、と叶いもしないことを祈りながら、静かに目を閉じた。
カーテンから薄日が差す。結局眠れず朝になった。抵抗も虚しく、私は剥がされるように身体を起こした。
朝になった時点で察してはいたが、今日学校に行くのは無理だろう。時間になったらさっさと学校への連絡を済ませて布団に潜ってしまおう。時間になるまでの暇つぶしも出来やしないが。勉強はトラウマを思い起こさせるし、かと言ってまともにできる趣味もない。昔唯一打ちこめたゲームも両親に没収されてからそれっきりだ。確か理由は、「勉強もまともに出来ないのにゲームなんてするな」だったか。ごもっともでぐうの音も出なかった。その時抵抗するか、それともまた別の趣味を見つけでもしていればもっとましな人生を送れていたのかもしれない。今の私のようになってから趣味を見つけるのは無理だろう。どう考えたって手遅れだ。
ようやく七時だ。電話機を手に取り、学校に電話をかける。
「もしもし。朝のお忙しい時間帯に失礼します。三年二組のゆきです。体調不良で今日はお休みを取りたいのですが…」
電話の向こうで何か話し声がした後、「担任の先生を呼んでくるね」と言われたので素直に待つことにした。この無駄に緊張する時間もあまり好きではない。というか、電話自体がそもそも苦手だ。
「もしもし、ゆきさん。今日はどうしたの?」
一呼吸おいて、言葉を紡ぐ。
「少し頭が痛いのと、吐き気がします。なので、今日は休みたいです。」
話すだけで疲れてしまう。早く電話を終わらせて一人になりたい。
「ゆきさん、あなた成績が危なかったはずよね。それに昨日も早退しているし。休んで大丈夫なの?来たほうがいいんじゃない?」
面倒な説教が始まりそうな予感がする。
「ええと、私も行かないといけないのは分かっているんです。でも今日はどうしても今日は無理なんです。立ち上がるだけでふらついて頭痛がするんです」
これは本当だ。実際に今も立ちくらみがする。
「本当に?学校に行きたくない言い訳じゃないの?」
なんでそうなるんだ。ただでさえ体調も精神状態も悪いんだから、さっさと休ませてほしい。
「本当です。現に今も立ちくらみがしているんです。」
だから、早く承諾して休ませてほしい。とは言えなかった。
「クラスの子達も待っていると言っていたわよ。待っている人がいるのに来ないなんて……」
嘘だ!あいつらが待っているなんて言うはずない!言っていたとしたって、それは都合のいい玩具を求めているだけの戯言《たわごと》だ!
呼吸がおかしくなる。先生が電話の向こうで何か言っている。理解する前に、私の口は動き出していた。
「行けないって言っているじゃないですか!」
自分の言った言葉に気づいた時にはもう手遅れだった。息ができない。電話の向こうから呆れたといった様子の先生の声が聞こえる。取り繕うこともできず、私は乱暴に電話を切った。胃液がせり上がってくる。生理的なものか心理的なものかも分からない涙が溢れる。堪らず私はトイレに駆け込んだ。
顔を冷水で洗う。水と共に、私が零した涙も流れ落ちていく。ようやく現実感が戻ってきた。やってしまったことが今になって重くのしかかる。たぶん、明日から先生も味方してくれなくなるだろう。もとよりあまり期待はしていなかったけれど。頼みの綱がどんどん失せていく。
絶望感、孤独感、自分への失望に耐えきれなくなり、私は洗面所の鏡に映る自分を睨みつけた。
やけになって布団に潜り込んだ途端、今度は学校を休んでしまったことに対する罪悪感が込み上げてきた。数学も、国語も、得意だったはずの理科だって何一つ追いついていないのに。どうしよう。また置いていかれる。同級生は今を楽しく生きて一歩踏み出しているというのに。何もしていないのはたった一人、私だけだ。何かしないといけないのも、踏み出さないといけないのも分かっている。だが思考と行動は中々一致してはくれない。苦しみで鈍った体は鉛のようだった。
もう私はこのまま「どうしようもない人間」の烙印を押され生きていくしかないのか。死ぬまで他人と比較され続け、劣等生と言われ続けるのか。問いは止まない。無駄に問いを生み出しては解決できずに時間を浪費している。こんな人間と言えるのかすら怪しい生活をするくらいなら、いっそ消えた方がマシなのかもしれない。誰も助けてくれない。状況の改善も望めない。眠っても幸せな夢すら見させてもらえない。
人生を振り返って、果たして私は幸せになったことがあっただろうか。生まれてこのかた他人に避けられ虐げられてきた。私はずっと耐えてきた。耐えることが当たり前になるほどに。私もみんなと同じ、この世に生まれ落ちた単なる人間だというのに、どうしてこんなにも辛い目に遭わなければいけないんだ。人類は皆平等だと説いた先人たちを恨みたくなった。ただのとばっちりだということも理解している。しかし、そうでもしなければ私の濁った劣等感は溜まりに溜まって、きっと私を窒息させるだろう。
問えば問う程体は布団に沈み、私の体の可動域を奪っていく。このまま動けなくなって、何もできないような状態になりたい。そうすれば、きっと私は私を縛っていた責任や苦しみから解放される。でも自分から何もできなくなる勇気はない。結局、私はどこまでも弱いのだ。勉強も、運動もできない。他人にも嫌われ、挙げ句の果てには思考するたび自己嫌悪だ。私が生きていたって、何も良いことなんて。
時計を見るのに首を動かす気にもならない。ずっと、何もない天井を見つめている。一体休みの電話をして何時間経った?私は何時間この姿勢でいるんだ?自己嫌悪と碌でもない問いが頭を巡る。私にはその碌でもない問いを解決する力すら残されていない。部屋の照明の輪郭が歪むと同時に、一層激しい頭痛がする。まあ、何日も何週間もこの様子で寝られていないのだから当然だ。
天井の色が絶妙に黄みがかってきた。布団に縫いつけられてそのまま夕方になってしまったようだ。せめて、眠りたい。都合のいい幸福を夢見させてほしい。そのまま抜けられなくなっても構わない。私が経験したことのないくらい、甘くてクセになる、最高の夢を。両親と向かい合って、温かい一家団欒を過ごす。友人と他愛ない話をしながら、夕暮れの通学路を歩く。テストでいい点をとって、両親や友達に褒めてもらう。なんだっていい。私が経験したことのない「幸福」を、私に教えてほしい。そう切に願う。
…私が玄関に立つ。「ただいま」と言えば、「おかえり」と返ってくる。両親が笑顔で私を迎え入れる。食卓には温かい食事があって、みんなで「いただきます」を言う。今日あったことを報告する。小さな幸せすら、両親は自分の事のように喜んでくれる。そして………
……朝か。自己嫌悪にも飽きて、都合のいい妄想に耽っていたらこんなに時間が経っている。みんなが経験している幸福のイメージは私にとっては随分遠くて、ワンシーン描写するのに随分時間がかかってしまった。まぁ、ぐるぐると自己嫌悪をして夜を明かすよりはマシな気がしてきた。この上なく虚しいが。
支度、しないと。今日も学校なんだから。勉強しないと、いけないから。人と会って、分かりもしない勉強をする。痴態を晒して、クラスメイトに笑われて、都合のいい玩具にされる。たくさんの嘲笑が私に向く。今日学校に行ったら、きっとそうなる。
支度をして、寮の門を出たところでふと思う。私はなんのために学校に行っているんだ。わざわざ嘲笑されるためにあんな地獄に出向かなければいけない理由は?一つだってないじゃないか。気づけば私の足は、学校とは反対の方向に動いていた。
とりあえず、駅に向かう。とにかく逃げたい。私の知らない、どこか遠くへ。今持っているお金をあるだけ使って、片道ぶんの切符を買うんだ。ここじゃない、美しい街に行きたい。私の隣には結局最期まで味方がいなかった。だから最期くらいは、自分で幸福を選択する。これが、私にできる最後の抵抗のようなものだった。
単調な空調の音が響く電車の中で、私は電車の発車をじっと待っていた。最近暑くなってきたからか、遠くから蝉の声が聞こえてくる。田舎の電車だからなのか、車内に人はほとんどいない。ただ、空調と蝉の声、木々のざわめきが共鳴している。もう、「劣等生」と罵られなくていい。涙で読めない教科書を必死に捲らなくていい。それだけでこんなにも気が楽で、世界が綺麗に見える。これが幸福と言えるのか定かではないが、今の私の中には今まで感じたことのない安心感が満ちている。それだけで、もう十分だった。
電車の発車を告げる電鈴が空気を震わせた。窓の景色がずれて、ホームに設置されている柵が見えなくなる。
さようなら、私の大嫌いな街。
森が薄くなり、蝉の声が遠のく。木々の隙間から、海が見えてきた。大体三時間くらい経っただろうか。電車の走る音で波の砕ける音は聞こえてこなかった。そういえば、私は生まれて終ぞ海水浴というものをしたことがなかった。やってみたかったんだけどなあ。まあ今更後悔してもしょうがない。私にはもうこうやって、車窓から海を見渡すことしかできない。虚しくもあったが、それだけで十分だと思える自分もいた。
何時間乗ったかわからないが、次が終点のようだ。気づけばビル群に囲まれていた。この街にいる人はみんな、私を知らない。なんて気が楽だろう。ビル群の隙間から夕陽が見える。電車を降りて、駅の出口に向かう。遠くに、傘を持った人々がいる。あたりの人々がざわめき始めるのが分かった。さっきまで雨は降っていなかったはずなのに。最期までついていないなあ、なんて思いつつ、駅を出る。生憎私は傘を持っていない。でももうそんなことはどうでも良かった。雨に濡れながら、知らない街を思いのままにぶらつく。そしてそのまま、人気のない通りで座りこんだ。このあとは、どうしようか。勢いで出てきて全部終わらせようと思ったはいいが、具体的なことを何も考えていなかった。どうすればいいかも分からない。
どうしようもなくて顔を埋めたその時、誰かが私の肩を叩いた。
「きみ、大丈夫?そんなところでうずくまって。風邪ひいちゃうよ。」
その人は心配そうに私の顔を覗きこむ。
「逃げてきたんです。もう、全部嫌になって。勉強も、運動も、人間関係もうまくいかない。挙句に家族も味方してくれない。」
今できる精一杯の笑顔を作って、私は続ける。
「今の私に、帰る場所なんてありませんよ。」
それを聞いて、目の前の少女ははっとしたような顔をしたあと、口を開いた。
「じゃあ、ぼくの家、来なよ。大丈夫。苦しい思いはさせないって、約束するから。」
私は、この人について行っていいのだろうか。私なんかが。また、迷惑をかけてしまうかもしれない。
そんな私の様子を察したのか、その少女は私に手を差し伸べた。
夜空にいっとう輝く満月のような彼女の瞳が、私を真剣な眼差しで見つめる。
その手を取った時、私は初めて人の手の温かさを知った。