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「いい加減、辞めさせてください」
掠れた声が、静まり返った部屋に響く。
薄暗い、いつもの場所
いつものように、感情の欠片も見せない男が俺の目の前に座っている
この部屋に来て、この男に頭を下げて、この言葉を口にするのは、これで何度目だったか。
五回か、十回か。もう数える気にもなれない。
「どうしてお前はそんなにスパイを辞めたいんだ」
その問いかけも、聞き飽きた定型句だ。
何度「もう疲れたんです」「人の命を弄ぶことに耐えられない」「普通の生活が送りたい」と心の中で叫んだだろう。
だが、それをこの男に直接ぶつけたところで
何かが変わるわけではない。
この男にとって、俺たちは駒であり
道具でしかないのだから。
感情など、必要ない。
辞めたい理由なんて、山ほどある。
いつ死ぬかも分からない日々。
心を殺して標的に近づき、利用し、そして消す。その繰り返し。
夜中に目が覚めれば、ターゲットだった奴らの顔が浮かぶ。
良心の呵轢なんてものは、とうの昔に置いてきたはずだった。
なのに、体は、心は、確実に悲鳴を上げていた。
このままでは、人間でなくなってしまう。
いや、もうとっくになっているのかもしれない。
「……もう、限界なんです」
絞り出すように、最低限の言葉だけを返す。
これ以上饒舌に語ることは、この男の前では弱さを見せることに他ならない。
上司は何も言わず、ただ俺を観察するようにじっと見つめていた。
その瞳の奥には、何も映っていないように見える。
だが、その静けさこそが、この男の持つ底知れない冷酷さと権力を物語っていた。
辞めたいという俺の願いなど、この男にとっては取るに足らない、些末な問題なのだろう。
どうすればこの「駒」を最後まで効率よく使い潰せるか、それだけを考えているのだ。
やがて、長い沈黙の後
上司はフッと鼻で笑ったように見えた。
それは嘲りとも、憐憫ともつかない
無機質な反応だった。
「いいだろう」
思いがけない言葉に、俺は一瞬、息を止めた。本当に? まさか、こんなにあっさり──。
「ただし、最後に一つ、簡単な仕事を片付けてもらう」
やはり、そう来たか。安堵など、一瞬たりとも許されない。
この男の言う「簡単」が何を意味するか、俺はよく知っている。
テーブルの上に、一枚の写真が滑らされた。
朱鷺原 碧。人の良さそうな笑顔。
それが、俺の最後の標的。
上司は、まるで天気でも話すかのように淡々と告げた。
「足を洗いたきゃ、最期にこいつを殺してこい」
それが、自由への条件。
写真の男に、俺の未来がかかっている。
「奴は口が上手い。油断するな」
口が上手い、か。
つまり、懐に入り込むのは難しいかもしれないが、一度入ってしまえば、逆に利用される危険もある、ということだろうか。
警戒しろ、という指示だ。
次の瞬間、上司の冷たい目が、俺の目を射抜いた。
「万が一にも、殺し損ねて帰ってきてみろ、その時は……お前を、裏切り者として処分するからな」
その言葉が、鉛のように俺の心に突き刺さった。
裏切り者としての処分。
失敗すれば、待っているのは死よりも残酷な末路だ。
後戻りはできない。
成功して自由を手に入れるか、失敗して全てを失うか。
選べる道は、ただ一つ。
朱鷺原 碧を殺し、生きて帰る。
「……承知いたしました」
感情のこもらない声で、俺は応じた。
他に言葉はなかった。
反論も、怯えを見せることも許されない。
上司は満足そうに、あるいは無関心に、わずかに顎を引いた。
下がっていい、という合図だ。
俺は一礼し、踵を返した。
部屋を出て、重い扉が閉まる音を聞きながら、薄暗い廊下を歩き出す。
体は冷たいが、内側では静かな炎が燃え始めていた。
これが最後の任務
この仕事さえ片付ければ、俺は自由だ。
長年夢見てきた、血と硝煙とは無縁の
普通の人生が手に入る。
その思いだけが、俺を突き動かしていた。
朱鷺原 碧。お前は俺の自由への鍵だ。
ターゲットの情報は最小限だった。
口が上手い、という漠然とした特徴と、いくつかの個人情報。
だが、スパイとして培った技術と経験があれば
懐に潜り込むのは不可能ではない
そう自分に言い聞かせた。
数日後
俺は朱鷺原 碧の住むマンションに新たな隣人として潜入していた。
接触は計画通りに進んだ。
偶然を装って声をかけ
山内健という偽名を使って挨拶を交わし
すぐに俺たちは「お隣さん」として親しくなった。
碧は写真で見た通りの
いや、写真以上に穏やかで優しい雰囲気を持つ男だった。
笑顔は人懐こく、話術に長けているというのは確かだったが
警戒すべき「口の上手さ」というよりは、自然と人を惹きつける魅力といった方が近かった。
一緒に飯を食う機会が増え、世間話をし
時にはくだらない冗談で笑い合った。
ターゲットとの距離は順調に縮まっていった。
飯友、と呼べるほどに。
組織への報告も、順調に進んでいると伝えていた。
潜入は成功。
あとは、頃合いを見計らって──。
その時が来た、と思ったのは
隣人になってから数週間が経った頃だった。
ある日の晩
いつものように、俺は碧の部屋で夕食を共にしていた。