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雨が降る。 しとしとと雨が降る、雨が降り続けている。
時雨のような、桜雨のような……いや、虎が雨に近い気がするのは、物悲しさが混じるからだろうか。
あぁ、違うな……これは、全て悲しみの涙だ。
気高く、気品があり、子等への慈悲深い一面を持ちながらも人間共には残酷な母の、涙の雨が頬に当たり、翠雨となって俺の肌に染み込んでいく。
『すまない、すまない……我のせいじゃ。我が不甲斐無いばかりに、愛おしいお前に、こんな重荷を背負わせてしまった。こんな瞳で産んでしまった……悔しや、悲しや……だけど心から愛おしや、我が子よ——』
(あぁ、泣かないで母上。貴女は悪くない。何も悪くないのですから)
そう伝えたいのに言葉が口から出てこない。俺の手はやたらと小さくって、こんな手では巨体を誇る母上の指先だって掴めそうにない。だけど言わねば、俺は大丈夫だって。自分も母上を愛していますよと言わないと。象牙の様に艶やかな、額から伸びる大きな二本の角を持つ母上には、悲しみの涙なんかちっとも似合わないのに。
泣かせているのが俺なのだと思うと、自分まで悲しい気持ちになってくる。
他の兄弟達に乳を与え、でも俺にはくれない母上の姿を遠くから見ている時も、口にする言葉が、『あぁ……あの子の未来が心配じゃ。我だけではいつまでもあの子を守り通せん。心無い者の手に渡っては難儀な事になる。どうしたものか……あぁぁぁ……』と、嘆く声が聞こえてくるので、辛くは無い。寂しくもないし、悲しくもないし、乳をもらえぬ飢えにだって耐えられる。
母上に、俺も、兄姉達と同等に愛されている。
それだけで心は満たされ、痩せ細ったこの腕や脚が兄姉達の悲しみをも誘おうとも、俺はそれだけで充分なのですから。
瞬きをした刹那で場面が変化し、俺の背後に立つ母上が「この子をそちらで引き取ってはもらえまいか」と、前に立つ男に言った。
赤ん坊だったはずの自分の姿は子供のものへと変わり、まるで地獄に住まう餓鬼の様な有り様だ。
そんな俺の手を掴み、母上が赤い涙を流し続けている。ギリギリと食いしばる口元からも血の雫がぽたぽたと流れ落ち、母上の苦痛と悲しみが俺の上へと降り注いだ。
泣かないで、母上。
そう言う権利が自分には無い気がして言葉に出来ない。俺達に対してのみ愛情深い母上にそんな言葉を与えても、『お前はなんて優しい子なのだ』と言って、更に涙を流すだろう。だけど、どうしたって気持ちが声となって出てしまう。
「……母上、大丈夫ですか?」
「えぇ、えぇ。大丈夫よ、何でもないわ」
優しく答え、心配させまいと着物の裾で血の涙を拭う母上が、次の瞬間見せてくれたのは、とても美しい笑顔だった。
何やら目の前の男と母上が話を始めた。俺の事だとはわかるが、この貧弱な体では音すらも聞き取りにくい。チラリと見上げた狐耳のある男の顔は見知った存在な気さえする。
今初めて会ったはずなのに……何故だろうか?
男との数分のやり取りののち、母上が俺に向かい「——じゃあ、母は此処でお別れです。いいわね、お前にとっては理不尽だと感じる事があっても、この狐の言うことをちゃんと聞くのだよ。そうすれば悪いようにはならないでしょう。少なくとも……命は助かるから」と諭された。
あぁそうだ……思い出した。
此処へ来るまでの間にも『今日が別れの日だ』と母上は言っていたではないか。『養父を見付けた』と、『今は八尾となったらしい九尾白狐が、お前の身を預かってくれるから』と。
「母上……」
別れは辛い。しかも、 きっとこれは永劫のものだ。もう二度と母上には逢えないだろう。だから母上は、血の涙を流しているのだと思う。 母の悲しさを汲み取ると『嫌だ』とも言えず、言葉が続かない。
どうしていいのか戸惑っていると、八尾の白狐の背後から一人の子供が俺の方へと歩いて来た。白狐の男とよく似た三本の白い尻尾を揺らし、人懐っこい笑顔を浮かべながら、俺に向かって手を差し出してくる。
「初めまして。これからよろしくね」
その手を取るべきか迷っていると、母上が俺の背中を軽く押し、「ほら、彼が新しくお前の兄上になる者よ」と教えてくれる。今までは兄姉等の安全の為にと兄姉達は遠くから見るだけで近寄らせてもくれなかったのに、今回は違う様だ。
兄……か。
彼が、俺の。
一歩前に出て、俺は差し出されたその手を取った。この場合は何と答えるべきか迷ったが、無難に「よろしく……お、お兄ちゃん?」と口にする。
「……あはは。お兄ちゃん、お兄ちゃん、か。ちょっとくすぐったいや」
そう言って、白狐の少年は照れ臭そうに笑っている。そんな彼の笑顔にひどく懐かしさを感じ、こんな少年の事は知らないのに、不思議と切ない気持ちになってきた。
「行こう!あっちにね、川があって魚がとっても綺麗に光っているんだ」
俺の手を引き、一緒に行こうと走り出す。こちらの返事も聞かず、せっかちな奴だと思うのに、つい自分も彼と同じように走り出してしまった。
もっとちゃんと、母上にお別れを言いたかった気がする。
でも、これで良かったとも思う。
元の住処とは違う、美しい自然に囲まれた周囲を軽く見渡し、『この先は、母の目からもしまた涙が落ちる事があっても、それは全て喜雨となって、兄姉達を癒して欲しいな』と、子供ながらに思ったのを今でもはっきりと覚えている。
ちょっと気を抜いた瞬間、また場面が一転した。
「……オウガの屋敷、じゃないか?此処は」
そのせいで、やっと自分の置かれた立場に対して違和感を覚えた。
今にして思えば、母上と別れたのはもう何百年も昔の事だし、そもそも今の自分はオウガノミコトの手によって異世界送りになっていたはずだ。
そうだ……リアン。リアンは何処だ?
ついさっきまで、廃病院の中で一緒に手を繋いでいた気がするんだが。
……ちょっと待て。
今居る此処は、そもそも現実なのか?
周囲の畳や座布団といった物には触れる事が出来るが、コロコロと変化する時間軸に頭がついていかない。確認の為に頰をつねるという定番の行為に及ぶと痛いから、今起きているコレは現実であると認識する事にしたまではいいが、傍にリアンが居ない事に対し不安を感じる。こんな気持ちになるのは久しぶりで、俺は慌てて今居る部屋の襖を開け、廊下へと飛び出した。
「どうしたの?そんなふうに慌てて。あ、もしかして何か壊しちゃったとか?」
「……(誰だ?コイツは)」
部屋から出るなり声を掛けてきた背の高い男が誰なのかわからず困っていると、五本の尻尾を嬉しそうに揺らしながら、男が俺の手を掴んでくる。咄嗟に振り払おうとしたのだが、不思議と感じる馴染み深い感触のせいで離せない。
「今日はどうしようか?釣りにでも行く?僕は別にこのまま部屋で二人で……その、ゴロゴロしているだけでも、いいんだけど……」
頰を桜色に染め、長い黒髪に白い狐耳の生えた男が照れ臭そうに微笑んだ。
中性的で綺麗な顔立ちをしており、白い肌の中で青い瞳がキラキラと輝いている。——あぁそうか、尻尾の数が増え、背が伸びてはいるが、この顔はあの、母上と別れた日に俺の手を引いて一緒に走り出した、あの少年じゃないか。
距離感がやけに近く、呼吸がちょっと荒い気がするが今は遊びたい気分でもないので「あぁ、そうだな」と俺は答えた。
日差しが心地いいから、きっと昼寝でもしたいのだろう。
雲の少ない空をチラリと見上げ、この男が寝たらリアンを探す事にした。きっとあの『かうんせりんぐるーむ』とやらに入った瞬間、転移系の魔法か何かで何処かへ飛ばされたに違いない。幻想の様なコレがクエストの延長なのだとしたら、早くリアンを探して合流せねば。
「いいの?ほ、ほ、本当に?」
俺の両手を掴み、何度も男が確認してくる。
「……あぁ。何か問題があるのか?」
「無い!無いけど、いつもだったら『こんな真っ昼間からだなんて』って恥ずかしがって、僕からそっと逃げようとするから」
「……逃げる理由がわからんのだが」
「そ、そっか!そうだよね、僕もそう思うよ」
うんうんと何度も頷き、俺の両手を持ち上げて頬擦りをしてくる。こんな事はリアン以外にされても気持ち悪い行為のはずなのに、やっぱり抵抗出来ない。
「じゃ、じゃあ、部屋に戻ろっか。紅焔」
「——はぁ⁉︎」
本名を呼ばれ、驚き、俺は咄嗟に男の手を振り解いた。
「んな!な、何故その名前を、お前が知っているんだ!」
焦り、怒り、驚きといった複雑な感情が入り混じり、困惑が胸の奥で生まれる。
嫌だ、その名前を他人が口にするな。
その名前は、大事な人がくれた贈り物なんだ。
今となってはもう、彼以外が口にしてはいけない名前なんだ!
肝心の『彼』が誰を指すのかもわからぬまま、俺は心の中でそう叫んだ。
「……何でって、それが君の名前だろう?」
「そうだ、が……でも……」
動揺する俺の頰をそっと手で包み、「紅焔……」と、優しい声でまた男が俺の名を口にした。
「どうしてそんなに驚くの?この名は僕が君にあげた名前だ。僕が君の名付け親だろう?……つまりは、君は僕のモノって訳だ」
「……え、あ、——は?」
可笑しな理論を言いながら、男が首筋の方へ顔を近づけてくる。
どういう事だ?
流れ的にコイツはどうやら俺の義兄らしいのに、こんな奴は知らない。 だが不思議と、この名前をくれた者が自分にとって最も愛おしい者だった気がした。
クチュッと水音が聞こえ、俺の青白い細首に男が口付けをしてくる。
あぁ、コイツの言っていた『ゴロゴロしよう』は卑猥な意味だったのかと今やっと察したが、体が動かない。抵抗したら傷付けてしまう、逃げようとしたら嫌われるかもしれない。俺には彼しか居ないのに——と、名前もわからぬ相手に対して何故かそんな思いを抱いてしまう。
「お、お……」
「ん?どうしたの?……やっぱり恥ずかしいのかな。まだ陽が高いから、襖を閉めてもきっと、お互いの様子が丸わかりだよね。でも大丈夫だよ、どんな姿になろうが、君は綺麗だから」
跡が残るくらいに強く首の肌を吸い、自分の付けた跡を指先で撫でながら、満足そうに男が微笑む。
その顔を見ると無性に嬉しくって堪らなくなった。この世の全ての幸せが此処にある気さえしてくる。ずっとずっと欲しくてしょうがなかったモノを取り戻したみたいな感覚が体の奥から溢れ出し、俺はとうとう、目の前に立つ男の首に腕を回し、この男が何者かもわからぬまま強く抱き締めてしまった。
「せ、積極的……だね。どうしたの?今日の紅焔は、何かちょっと変だよ?まるで……そうだな、例えるなら、『ずっと逢えていなかった恋人と再会出来た』みたいな感じ、だよね」
体に縋りつき、『あぁ。全くもってその通りだな』と思うのに、やっぱりこの男が誰なのかがわからない。思い出せない。分厚い膜が記憶の一部を全て覆い、自分の力だけではもう引き剥がせそうにない感覚だ。
「お前は、誰だ?」
確認せねば。その思いだけでそう訊くと、男は酷く驚いた顔になった。
「——は⁉︎……えっと、それは……新しい遊びかな?でも、流石にちょっと傷付くんだけど」
「いいから!言え!お前は、誰だ⁈」
語気を荒げて言うと、仕方ないなと溜息を吐き出しながら、男は口を開いてくれた。
「……僕は、オウガノミコトが一人息子、竜斗だよ。これで満足したかな?」
少し悲しそうな笑みを浮かべ、男は——竜斗は、そう答えた。
「嘘でも、冗句だとしても止めてよ。紅焔が僕の事を忘れるとか、一時だって考えたくもない」
「俺だってそうだ……嫌だ、忘れるとか、忘れられるとか、そんな事がもしあったなら……もう何もかも覚えてなんていたくない!」
頭を横振り、駄々っ子みたいに叫んでしまった。