君は、心を『侵蝕』され、『支配』されるという経験をした事はあるだろうか?
残念ながら僕はある。
病原菌の様な『ソレ』は僕にとってこの上なく不快で、自分の意思や思想とは関係なく、心を蝕んでいく。一つの『信念』だけで満たされていた心が徐々にそうではなくなっていく感覚が気持ち悪くてしょうがない。
何度も、何度も何度も何度も何度も、自分の心から『出て行け』と追い払っても、形ある存在ではない『ソレ』を払い除ける事など出来る訳が無く、ただ無駄に、少しづつ心が蝕まれるままに歳月だけが過ぎ去っていった——
『ソレ』が僕の心に『侵入』し、『侵攻』されていったキッカケは、ほんの些細な出会いから始まった。その時はあまりにも何気ない普通の出会いで、将来に及ぶ程のものだとは、まだ青臭かった僕には全く感じとる事など出来なかった。
実家の隣(とは言っても、実家の敷地は広大な為、車で何分も離れた場所なのだが )に住む老人の家に養女が迎い入れられたのは僕が十五歳の時。実妹の雪乃が五歳になった年だった。
老人は代々続く有名な人形師の本家・秋穂家の当主で、それなりの広さの敷地に純和風の屋敷と工房を持ち、何人もの弟子達を同居させている。母屋の周囲は重苦しい塀で囲まれ、その塀は屋敷の屋根すら外からは見えない程無駄に高く、老人の家は正直『刑務所』の様にしか見えなかった。そんな家の造り方をしていたのは自分達の技を守る為であると気が付いたのは、僕が大人になってからの事だ。
刑務所の様な印象を持つ屋敷に来た少女は、老人の遠い親戚筋に当たる子で、数週間前に両親を事故で亡くしたばかりだったそうだ。
雪乃と同じくまだ五歳という幼さなのだが、他のどの弟子よりも有能な素質の片鱗を前々から見せており、両親の件をきっかけに老人の養女となったらしい。
本家の養女であり、才もある。
それを理由に少女は大人達の嫉妬を買いながら、『一番弟子』という座を本人の理解も無いままに手に入れてしまった。 老人が五歳の少女にどの様な才を見出したのかは僕の知る所ではないが、幾多の弟子達を差し置いての後継者決定は、まだ子供だった僕の目には不憫でならないと映った事は確かだった。
そう思ったのは僕だけではなかった。
僕の両親も同じ目で彼女を見ていたらしく、同じ年齢の子供がいる同士、『家も近い事だし息抜きも兼ねて遊びに来ないか』と老人に提案したらしいが、最初は即断られたのだとか。
『この子はすべき事が山ほどある』という理由で。
それからもずっと、やんわりと誘いを断り続けていた老人がやっと首を縦に振ったのは、最初に話を持ち出してから数週間後の事。
人形師・秋穂家への一番の出資者でもあり、僕の母方の『椿』・父方の『カミーリャ』という両財閥相手には強気の姿勢を見せ続ける事が出来なかったのか、もしくは両親の根気と諦めの悪さに負けたのか。 僕は後者だったと今でも信じている。
春——幼い二人が出会うには丁度いい季節だった。周囲の木々には新緑が芽生え、一足先に咲き始める桜が二人の出会いを祝福するかのように自宅の庭に咲き誇るからだ。
冬の白い積雪を背にする雪乃も美しいが、愛らしい妹にはやはり春が似合う。穏やかで優しい天使の様な微笑みには春の息吹に似たものを感じるので当然だろう。
『お兄様、来たんじゃない?ふゆみちゃん』
今まで同じ年齢の子供とほとんど遊んだ事のない雪乃は、玄関のすぐ上にあるベランダから庭に人影を発見し、少し後ろに立っていた僕の方へ振り返りながらそう教えてくれた。
嬉しさと緊張の混じった顔は言葉に出来ない程に愛々しく、目の中に入れても痛くはない程度では済まない可愛さを撒き散らしながら僕の心をくすぐる。そんな雪乃の表情に顔を緩めていると、雪乃は腕に抱いていたウサギのぬいぐるみを強く抱き締め、僕から少し遠ざかった。
(……今思うと、この年齢辺りから少しづつ雪乃に警戒され始めた気が)
っと、記憶の脱線を戻しつつ——妹の傍に行くと、雪乃が指し示す方へ僕は視線を向けた。するとそこには、深緑色をした甚平を着た不機嫌そうな青年の後を早足でついて行く少女が一人。僕等の家を軽く見上げながら玄関に向かっている。場違いどころか、建造する国すらも間違ったギリシャ風の白い建物が珍しくてしょうがないと言いたげな顔だ。
『あのままじゃ転ぶねぇ』
ベランダの手擦りに頬杖をついて僕がそう言った瞬間、少女はつまずき、顔面から派手に転んでしまった。だが前を歩く男は止まる事も振り返る事もなく、僕等の家の中へさっさと入って行く。そんな二人の様子を見て『あの子の置かれている環境は幸せなものではないんだな』と直感したが、雪乃の前なので口には出さなかった。
『絆創膏あげないとね』と 心配そうな雪乃の声。間違いなく、今一番幼い彼女の事を思いやっているのは、同じく五歳の雪乃だっただろう。
彼女が玄関に入った事を確認すると、僕は雪乃の小さな手を引き、客室に向かった。玩具など、彼女らが遊ぶ為の物は既に運び込まれており、あとは来客者と雪乃を待つだけの状態になっている。普段の客間は僕等子供が入っていい部屋では無かったので、その部屋に入る事が出来るというだけでも今日は少し特別な日のように思えた。そう考えているのはどうやら僕だけでは無いようで、客間に向かい歩く雪乃の足取りはいつもよりも軽いものに感じた。
客間のドアの前。『いったい此処はどんな場所なのだろう?』と少し胸を弾ませながらドアをノックする。中からの返事を待つ事無く重厚な客間のドアを開けると、女の子が喜びそうな玩具と装飾で飾られた室内の姿が僕の目に飛び込んできた。
リボンと風船で飾られた天井と壁。柔らかく大きな積み木風の玩具で作られた擬似的な庭のようなスペースには上に乗れそうな程に大きな熊や犬のぬいぐるみが並んでいる。子供が数人まとめて入れる程度の小さな木製の家、キッチンセット、お絵かき用の大きなホワイトボード、粘土セット——などなど。名前をあげてたらキリが無いくらいな玩具の嵐に、両親のおもてなしに対する気合の入れようがバッチリ伝わってきた。
そんな部屋の真ん中に周囲の玩具達とは質の違う豪華なテーブルセットが一つ。きっとそれは元々この部屋にあった品で、何かの都合により動かす事が出来なかったのだろう。そのテーブルセットが真ん中になければきっと、誰もこの部屋を本当は『客室』なんだとは思わない程に元の姿の想像が困難な部屋の中、芙弓は一人、ぽつんと大人用の来客椅子に座っていた。
僕の両親の説得の結果。半強制的に我が家へ訪れた少女は、美しくて子供とは思えない程の品に溢れた美少女である僕の妹と比べて、小さくて貧相で何処にでも居そうなごく普通の日本人の子供だった。これといって特徴が無く、普通過ぎて記憶に残らない。違う場所で会ったら誰かも思い出せない。この世の者とは思えない程に美しい妹と並んでいるせいかもしれないが、それが秋穂老人の養女・秋穂芙弓に初めて会った時の印象だった。
『これ貼ってあげるね』
自己紹介よりも先に、雪乃は芙弓へポケットの中の常備品である絆創膏を取り出して渡した。
『いつもはね、ウサちゃんに貼ってあげるの。この子元気だから、いっぱいケガしちゃうんだよ』
腕に抱いていたぬいぐるみを見せ、雪乃が芙弓にお気に入りのウサギの『設定』を話し始めた。その様子に軽く微笑み、僕は室内を見渡してみたが、此処には何度確認しても僕等三人しか居ない。秋穂老人が居ないのはわかるとしても、彼女と一緒に来た付き添いの青年までもがこの部屋に居ないのは、彼女を此処まで車で送って来ただけだったからみたいだ。だからこの子は華美でごちゃごちゃとした客間に一人で通され、足が床に届かない外国製の椅子に座り、戸惑いを隠せないでいるのだろう。
雪乃は簡単にウサギの事を説明し終えると、今度は芙弓の前に膝をつき、まだ少し血の滲む彼女の膝に絆創膏を貼ってやった。欲を言えばきちんと傷口を水洗いしてから貼ってやるべきだったのだが、僕は雪乃が善意からした行為にケチをつける事が出来ず、ただ黙って少しづつ後ろに下がり客間を後にした。
出会いは見届けた。
後は、同じ年齢同士の交流を彼女達は楽しむべきだ。
後ろ髪を引かれまくりながらも『それが雪乃の為だ』——と、自分に何度も言い聞かせながら。
——夜。
雪乃が寝る前に絵本を読み聞かせてやるのは長年僕の役目だった。両親が忙しいからというのももちろんあるが、全ては可愛い可愛い妹の為だ。眠そうに目を擦る仕草や、僕の読む本に夢中になって目を輝かせる様子を他の誰にも見せたくなかったというのもある。
『今日はどうだったんだい?』
芙弓との様子が気になり、僕は訊いた。
『楽しかったよ。とっても静かな子だったけどね、楽しいの』
『静か?んーそれは「話さない」って事かい?』
『お話はするよ。でもね、少しだけ。だからラクだったの』
人見知りの激しい雪乃にとって、大人しそうな芙弓という少女は、どうやらいい友人候補になれたらしい。今までにも何人かの子供と会った事のある雪乃だったが一度も誰かと上手く遊ぶ事が出来なかったので、妹がそう話すのはとても意外な事だった。
『そっか、じゃあまた遊びに来てもらうかい?』
そう訊いた僕に対し雪乃は、『うん!』と楽しそうに答えた。……あの時僕は、妹の愛らしくて可愛らしい笑顔を見て、『嬉しい』という気持ちよりも先に『嫉妬心』を抱いた事は、今でも誰にも言えないままでいる。
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