テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
どん、と。
畳の下から、何か巨きなものに突き上げられた。
膝が浮いた。ルーペが、手から跳ねた。
声を上げる間もなかった。次の瞬間、広間ぜんたいが、横ざまに振り回された。
柱が、悲鳴のような音を立てて軋んだ。
欄間の透かし彫りが外れて、畳の上に叩きつけられる。床の間の掛け軸が、壁を打って暴れた。どこかで、障子の桟がまとめて折れる乾いた音がした。
立てない。
這おうとした手のひらの下で、畳が波のようにうねっていた。
「栞」
背中に、重みがかぶさった。
冬馬様だった。私を畳に押しつけ、その上から、両腕で頭を抱えこむ。
上着越しにも、肋の骨が触れた。八日のあいだに、この人の体は、こんなに薄くなっていた。
「動くな」
耳もとで、短い声がした。
どこか遠くで、お鈴の泣き叫ぶ声がした。百合絵様が、お母様、と呼んでいる。瓦が、ばらばらと庭へ降る音。
私は、冬馬様の上着の胸を、両手で掴んでいた。掴んでいなければ、この世の外へ振り落とされそうだった。
冬馬様の肩の向こうで、肖像画が額縁ごと壁から外れ、床の間に落ちるのが見えた。先代様の顔が、畳の上に伏せた。
揺れの向こうに、灰色の背広が見えた。
真柴さんだった。
倒れた高階審議官の膝もとへ、まっすぐに這い寄っていく。誰もが頭を抱えている中で、あの人だけが、目的のあるものの動き方をしていた。
白い指が、書状を掴んだ。
「宗介」
冬馬様が、私を抱えたまま叫んだ。
真柴さんは、振り返らなかった。書状を懐に押しこみ、倒れかけた襖を肩で押しのけて、廊下の暗がりへ消えた。
どれほど続いたのか、わからない。
揺れが、ふっと緩んだ。
耳の中で、まだ何かが鳴っていた。舞い上がった土埃が、天井から細く落ちてくる。
床の間の柱の時計は、文字盤の硝子が割れて、針が止まっていた。
十一時、五十八分。
冬馬様が、私の上から体を起こした。
片方の手袋を、歯で引き抜いた。素手の指が、私の頬に触れ、額に触れ、髪の生え際をなぞった。
「怪我は」
「……ありません」
「本当か」
「旦那様が、全部、かぶってくださいましたから」
冬馬様の指が、一瞬、私の頬の上で止まった。それから、離れた。
「外へ出ろ。庭だ。早く」
冬馬様の声で、皆が我に返った。
高階審議官が、書類鞄を抱えて立ち上がった。麻布の御分家は、這うようにして縁側から転がり出ていった。赤坂の御分家と村瀬弁護士の姿は、もう見えなかった。
*
庭の芝の上に、人が集まった。
ハナ、キヨ、お鈴。篠原さん。下男たち。皆、裸足だった。
池の水が、まだ縁を越えて揺れていた。藤棚の柱が一本、斜めに傾いでいる。
「お母様は」
百合絵様が、叫んだ。
「お母様が、いない」
振り返ると、和館の縁側に、大奥様の姿があった。一度、外へ出かけて、また中へ戻っていくところだった。
「母上」
冬馬様が駆けだした瞬間、二度目の揺れが来た。
一度目ほど長くはなかった。けれど、和館の奥で、何かが崩れ落ちる、重い音がした。
仏間の方角だった。
私は、冬馬様のあとを追った。百合絵様と篠原さんも、ついてきた。
廊下には、落ちた壁土が散らばっていた。仏間の襖は外れて、内側へ倒れこんでいる。
土埃の中に、鈍色の着物が見えた。
大奥様が、うつ伏せに倒れていた。太い梁が、斜めに落ちて、その腰から下を押さえこんでいる。
「お母様」
「動かないで、お母様」
大奥様は、顔を上げた。額から、細く血が流れていた。
胸の下に、何かを抱えていた。
位牌だった。先代様の、黒い位牌。それから、並んでいた新しい二つ。
小夜子様と、千鶴さんの。
「篠原。そっちを持て」
冬馬様が、梁の端に手をかけた。篠原さんが、反対の端へ回る。
「一、二の、三で上げる。上がったら、引け」
冬馬様が、私と百合絵様を見た。
私は、大奥様の右の脇の下へ腕を入れた。百合絵様が、左の脇へ。
「一、二の」
冬馬様の腕に、筋が浮いた。食べていなかった八日分の体で、梁を持ち上げる。
梁が、指一本ぶん、浮いた。
「三」
私たちは、大奥様を引いた。
鈍色の裾が、梁の下から、ずるりと抜けた。
梁が、どすんと畳に戻った。冬馬様が、その場に膝をついた。肩で、大きく息をしていた。
「なぜ、戻ったのです、母上」
冬馬様の声は、怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。
大奥様は、抱えていた位牌を、胸からそっと離した。三つとも、欠けていなかった。
「……この子たちを、置いていけますか」
細い声だった。
「二人とも、私が、この家で死なせたのです。もう一度、置き去りにするわけにはいきません」
冬馬様は、何も言わなかった。
位牌ごと、大奥様を抱き上げた。
*
庭へ戻る途中、洋館のほうから、低い地鳴りのような音がした。
赤煉瓦の北側の壁が、ゆっくりと外側へ傾いでいくのが見えた。
一階の、小さな厨房のある側だった。
煉瓦が、崩れ落ちた。土埃が、高く舞い上がった。
今朝、皿を五枚並べたあの場所が、埃の向こうで見えなくなった。
冬馬様が、大奥様を抱いたまま、足を止めた。
一瞬だけ、そちらを見た。それから、また歩きだした。
私の帯の間には、真鍮の合鍵が一本、挟まっている。君と、私の場所だ。去年の秋、そう言って渡された鍵だった。
開ける扉は、もう、煉瓦の下だった。
私は、その鍵を、帯の上からそっと押さえた。銅鍋も、錫の茶筒も、水甕も、全部あの下にある。それでも、鍵を捨てる気には、なれなかった。
「タキさんは」
私が言うより先に、篠原さんが、使用人棟へ走っていた。
しばらくして、篠原さんが、タキさんを背負って出てきた。白い寝間着の、小さな体。目は閉じたままだった。お鈴が、布団を一枚引きずってきて、藤棚の下の芝の上に敷いた。
「息は、しておられます」
篠原さんが、汗だらけの顔で言った。
そのとき、使用人棟の向こうで、ハナが悲鳴を上げた。
「大台所から、火が」
昼餉の支度で、竈に火を入れていたのだ。
黒い煙が、勝手口から噴き出していた。
「井戸だ。池の水も使え。桶を全部出せ」
冬馬様の声が、庭に響いた。
私は、襷を掛けた。誰かが差し出した桶を受け取り、次の人へ渡す。井戸から勝手口まで、人の列ができた。お鈴も、百合絵様も、下男たちも。高階審議官までが、フロックコートを脱いで列に入っていた。
水が、煙の中へ投げこまれる。じゅう、という音がして、白い湯気が上がる。
腕が、すぐに痺れた。それでも、桶は止めなかった。
どれほど経ったのか。煙の色が、黒から灰色に変わった。
「消えた」
冬馬様が、煤だらけの顔で、勝手口から出てきた。
高階審議官が、煤のついたシャツの袖をまくり下ろしながら、冬馬様の前に立った。
「侯爵。申し立て人が、書状を持って姿を消した。今日の会は、成り立たん」
審議官は、崩れた和館の屋根を見上げた。
「だが、書状は焼けたわけではない。あれを持った者が、いずれ、宮内省の門を叩く。……そのときは、改めて、親族会を開くことになる」
冬馬様は、黙ってうなずいた。
私は、桶を足もとに置いた。
指が、まだ震えていた。帯の上に手を当てる。紺の博多帯の芯。縫いこんだ頁は、そこにあった。
けれど、あの遺言書は、真柴さんの懐の中だった。
あの人は、私がルーペを当てた瞬間の顔を、見ていたはずだ。私が、左下の角で、息を止めたのを。
誰かが、私の袖を引いた。百合絵様だった。
百合絵様は、何も言わずに、東の方角を指さしていた。
庭の端の、崖の上まで歩いた。麻布の高台から、帝都の東が見渡せる。
下町の空に、黒い煙の柱が、何本も立ち上っていた。
コメント
1件
うわっ…第72話、地震の描写がすごく生々しくて息が止まったよ😭💦 冬馬様が栞さんを庇って覆いかぶさるシーン、泣ける…あの“八日でこんなに薄くなった”って一文だけでどれだけ壮絶だったか伝わってくる…。真柴さんが書状持って消えたのも怖いし、大奥様が位牌抱えて戻ってきた場面はもう感情ジェットコースター…! 最後の下町の黒煙の柱、この先どうなっちゃうの…続きが気になりすぎるよ😭🔥