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「そう……。寂しくなるわね」
月曜の十三時、清掃室。お弁当を広げながら、私が庶務課を辞めることを伝えると、湯山さんが本当に寂しそうに言った。
「うん。私も寂しい」
私が庶務課で働きだしてから三年。ほぼ毎日のように湯山さんと一緒にランチを楽しんできた。
十二時から十三時、私は社内の郵便配達、湯山さんはフロア清掃をして、十三時から十四時までは二人で過ごした。
お互いにお弁当を作り合ったり、シェアしたり、湯山さんの味付けを教わったり……。母親を知らない私にとって、湯山さんは本当の母親以上に母親のような存在。
「課長さんとはどうなったの?」
湯山さんには、蒼と付き合っていることだけは伝えていた。
「二人で遊びに来てくれるの、待ってたのに……」
「しばらく、離れることにしたの。お互いに忙しくなるし……」
湯山さんには通用しないとわかっていながら、私は笑顔を繕って見せた。
「素直じゃなくて、頑張りすぎるくらい頑張り屋さんなのはお父さん譲りね……」
「そう?」
湯山さんが微笑んだ。
「お母さんが亡くなって、小さなあなたを妹さんに預けて、寂しさを紛らすようにがむしゃらに働いて……、働き過ぎて体を壊してしまって……」
湯山さんが私の知らない父との思い出を懐かしんで、うっすらと涙を滲ませた。
「湯山さん、お父さんと付き合ってたでしょう?」
私はずっと言葉にしなかった問いを投げた。
「お付き合いなんてとんでもない」
「でも、お父さんのこと好きだったでしょう? それとも、会長が好きだったの?」
「ふふっ……、どうかしらね?」
蒼の母親が亡くなった時期と、私の母親が亡くなった時期は同じ頃。会長もお父さんも、妻を亡くした寂しさを忘れるように仕事に打ち込んだと聞いた。だから、今のT&Nがある。
「どうして結婚しなかったの?」
「今の咲ちゃんと同じかな?」と、湯山さんは急須にポットのお湯を注ぎながら言った。
「私は邪魔なんじゃないかと思ったの。遠くから支えられたら、それでいいって……」
「そっか……」
もう、湯山さんの淹れてくれたお茶を飲めなくなるのではと思うと、勿体なくて、寂しくて、私はいつまでも湯飲みを握りしめていた。
*****
翌日の夜、私は極秘戦略課のオフィスで侑と一緒にいた。
一週間ほど前、T&Nのネットワークに侵入者があった。私は侑に、ネットワークの切断を指示し、数時間後には復旧させた。
私は侑に、侵入者の正体と目的を探らせた。
侵入者は三年前にT&Nのネットワークにワームを仕込んだ男で、目的は築島和泉と新条百合の情報。
「やっぱりあいつか……」と、侑が大きく仰け反りながら。
「三年も経ってリベンジかよ」
「尻尾を掴まれたら、リベンジ失敗でしょ」
私はディスプレイを睨みながら言った。
「でも、奴を焚きつけた黒幕の目的は果たされたんだぞ」
侑は苛立ちを隠さずに言った。
「百合はどうなる?」
「とりあえず謹慎ね」
「はぁ……」と、侑は大きなため息をつく。
「想定内か?」
「今のところは」
侑と会話しながら、私は違うことを考えていた。
なんだろう……、何か引っかかる。
「俺はどうしたらいい?」
「しばらく百合さんとは会わないで」
どうして奴は簡単に見つけられる足跡を残した?
「やっぱ、そうなるよな……」
侑が椅子を滑らせて、私の背後から顔を覗かせた。
「何考えてる?」
「うん……。簡単すぎるなと思って……」
「奴のマーキングを見つけたことか?」と言って、侑がディスプレイに目を向けた。
「俺たちの癖はなかなか直るもんじゃないからな。三年前に奴を駆除したのはお前だろ? 今回は前回よりも簡単なのは当然だろ」
侑の言うとおりだ。
私たちハッカーは自分の足跡を残したがる。クラッカーは特に、自分の実力を誇示したがる。だから、犯罪の立証は出来なくても、犯人の特定は容易なこと。もちろん、特定できるのはハンドルネームだけなのだが。
けれど、『奴』は三年前に素性が知れている。自分の仕業だと気づかせるような仕事をして、リベンジなどとは笑わせる。
そう、思わせることが目的か……?
「侑、裏ルートで奴の情報を集めて。これで終わるとは思えない」
「了解」
「それから、有休を消化したら庶務課は辞めるから」
侑が軽快にキーボードを叩く指を止めた。
「は?」
「これ以上、本社にいる意味はないわ」
今度は私がキーボードに指を滑らせた。
「蒼がいないから?」
「まさか」
「蒼は知ってるのか?」
「いいえ」
「いいえって……」
突然、侑が私の椅子を回転させた。
侑が、真っ直ぐに私の目を見る。
「咲、何を考えてる?」
思わず、私は目を逸らしてしまった。
侑に見つめられることに、弱い。
「これが終わったら、会社を辞めるつもりか?」
私は口をつぐんだ。
「百合もそのつもりなんだよな?」
百合さんは侑にどこまで話しているのだろう?
「咲、俺はお前のことも百合のことも上司として信頼してるし、尊敬もしている。だから、黙って指示に従うし、協力も惜しまない。でもな、友達として、恋人としては言いたいことが山積みなんだよ」
侑はいつも、ひたすら私のバックアップに徹している。技術で言えば私と侑に大した差はない。年も同じ。侑がいなければ、今の私はいないと言っても過言ではない。侑がいるから、私は好き勝手に行動できる。
「咲、置き去りにされる人間のことを考えたことがあるか? 俺だけじゃない、蒼だって同じだ。お前は何も言わないことで俺や蒼を守ってるつもりだろうけどな、俺たちはそんなことは望んでないんだよ」
普段、『部下』の顔を崩さないだけに、こうして『男』の顔をされると、戸惑う。
「侑……」
「何も聞かされないことが、どれだけ心配かわかるか? どれだけもどかしいかわかるか? どれだけ情けないかわかるか?」
私は、叱られた子供のように、うつむいていた。
ふと、窓に雨が打ち付ける音に気が付いた。
「キーボードを叩いて出来ることなら、何があっても助けてやる。それ以外のことは真さんが助けてくれるだろう。だから、何も聞かない。けど、今回はダメだ」
侑に話していいのだろうか……。
「それにな! 百合が築島和泉の恋人だと社内中に噂になるなんて我慢できないんだよ! それを我慢するんだ。納得できる理由を聞かなきゃ、明日の朝には婚姻届けを出して総務に届けるぞ」
数秒、私は言葉を失って、思わず吹き出して笑ってしまった。
「あはははっ……! 何、その脅し文句!」
「笑い事じゃねぇよ! これが終わるまでお預け食らうんだぞ!」
「ごめん……、ごめん……。そうだよね」
笑い過ぎて涙が滲む。
私は涙を拭って、侑と向き合った。
そうだよね……。
侑には知っておいてもらわなきゃ。
「庶務課の方は……、そろそろ潮時だと思っていたからいいの。この騒ぎが収束しても、もうこれまでのようには働けないもの」
「だけど……」
「侑、私、清水の被害者女性に会って来るつもり」
「は?」
「蒼がね、言ってたの。『ここまで騒ぎが大きくなる前に処理出来たかもしれないのにしなかった和泉兄さんも、ここまで騒ぎを大きくしなくても処理出来たかもしれないのにしなかった充兄さんも、ムカつく』って。『俺は被害者が増える前に、被害者が晒し者にならないように処理したかった』って……」
侑は、私の言いたいことを理解したらしく、ハッとした表情で目を見開いた。
そして、納得したように微笑んだ。
「清水にも、川原にも、黒幕にも、償わせる。被害者の女性たちの傷が少しでも癒えるように」
「蒼を会長の椅子に座らせるつもりか?」
「それは、蒼次第かな……」
無意識に、左手の薬指をさすっていることに気が付いた。
「とにかく! 本社にいたんじゃ身動きが取れないから、辞めるの」
意識的に、左手首の時計に目を向けた。
蒼は……つけてくれているだろうか――。
「で、お前の留守の間、俺は何をすればいい?」
侑が『部下』の顔で聞いた。