テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
あの夜以来、何度かバーで顔を合わせた彼女……シズカは、時には子供のように目を輝かせて企画の進捗を語り、時には時代錯誤な上司に小さな溜息を吐き、時にはとりとめもない世間話で俺の心を解かしていった。
けれど、ある夜を境に、彼女は忽然と姿を見せなくなった。
バーの重い扉が開くたび、無意識に視線を向けてしまう自分に苦笑する。
仕事が順調で忙しいのか、あるいは、俺の正体に勘づいて怖くなったか。
天利「まあ、それが普通だよね」
俺は自分に言い聞かせ、彼女のいないカウンターの余白を、いつもの独りよがりなラムで埋める夜を過ごしていた。
数日後。
俺は組長室で、山積みの書類やパソコンと睨み合っていた。
目が霞むような事務作業の連続と
その静寂を、耳障りな破裂音が引き裂いた。
蹴破るような勢いで扉が開く。
先触れもなく踏み込んできたその男は、目が眩むほど真っ白なジャケットとスラックスに大理石柄のシャツを身につけていた。
天利「新界……
来るなら連絡……」
新界「うるせえ!
てめぇ、何をした……っ!」
新界はデスクを乗り越えんばかりの勢いで
俺の胸ぐらを掴み上げた。
天利「なんだよ、藪から棒に……
喧嘩したいなら他をあたっ……」
新界「すっとぼけてんじゃねえぞ天利!
お前、姉貴の部下に手ぇ出したんだってな!?」
天利「……はぁ?」
一瞬、思考が停止した。
新界の姉貴といえば、若い頃に出会い頭に新界の顔面を殴り抜けたり、〇的したり、首根っこ掴んで引きずって帰ったり、丸刈りにしたり、半死半生にしたり、雪の中パンイチで放り出したりする女傑だ。
(後半は新界から聞いた話だが)
新界「あのクソ姉貴、うちの組の直通番号に、直接電話してきやがったんだよ!!
『特徴は肌がなまっ白くて、指が細長くて、髪を後ろで括った髭面の男』
『清掃業なんてふざけた言い回しで、可愛い部下をたぶらかしている毒ネズミ』
『そいつを野放しにするなら、俺ももそいつも組ごと東京湾に沈めて更地にしてやるか次の正月は刑務所の面会室で迎えさせる』 ……って な!」
天利「……待って
その部下っていうのは……」
掴まれた胸ぐらの奥で、心臓が嫌な音を立てた。
点と線が、最悪な形で繋がる。
俺の『お嬢さん』は、コイツの姉の、お気に入りだった。
天利「……世間は、狭すぎるね」
新界「感心してんじゃねえ!
お前の色恋沙汰に俺を巻き込むな!」
天利「……たぶらかしている、か」
小さく呟く。
俺は、自分の冷えた右手を眺めた。あの子に触れなくて正解だった。
だが、そう思う一方で、胃の腑に溜まったラムの毒気が、じわりと熱を帯びていくのを感じていた。
新界「……お前、その女にどこまで話した?」
俺は胸ぐらを掴んでいた新界の腕を軽く叩き、解放させる。
新界は勝手にソファに深々と沈み込み、煙草を取り出す。
天利「……別に、何も
ただの飲み友達だよ
俺の素性は隠していたつもりだし、 バレるようなヘマはしないよ……
それに俺は彼女の名前を知ったのは、 ついこの間だしね……」
俺も向かいのソファに腰を下ろし、煙草に火をつけた。
天利「蓼原シズカ
……あの子の上司が、まさかお前の姉貴だったなんてな
運命っていうのは、時々悪趣味な冗談を言う」
新界「冗談じゃねえよ
姉貴はその女を実の妹みたいに可愛がってんだ
『そいつを野放しにするなら、俺ももそいつも組ごと東京湾に沈めて更地にしてやるか次の正月は刑務所の面会室で迎えさせる』だそうだ 」
天利「こっわ……
相変わらず苛烈だね
政宗くんの姉君は……」
紫煙の向こう側に、シズカの真っ直ぐな瞳が浮かぶ。
シズカ「天利さんご自身は、誰にも甘えていらっしゃらないように見えますもの」
あの言葉を新界姉に話したのだろうか。
だからこそ、新界姉は「毒」だと断じた。
俺の孤独は、あの子のような光には、毒でしかないのだと。
新界「で、どうすんだよ 」
俺はソファに深く背を預け、天井を見上げた。
天利「政宗くん
……流されるのは俺の性分だけどさ
誰かに指図されて流れる方向を変えるのは
あまり好きじゃないんだ」
新界「……あぁ?
お前、それ、姉貴に喧嘩売る気か?」
新界が呆れたようにふんぞり返る。
新界「……正気かよ?
お前だって、あのクソ姉貴のヤバさはよく知ってんだろ?
その気になりゃ、何もかも全部シュレッダーにかけられて、東京湾に更地を作らされるぞ」
天利「……更地か
それも悪くないね」
俺は紫煙を細く吐き出した。
天利「俺は根無し草が性に合ってるからね
ここがなくなったら、また別の場所で浮草になるだけさ
……いっそ、海外にでも逃げようかな」
窓の外、どんよりと曇った都会の空に目をやる。
あの子がいないバーの止まった時間よりも、今は新界姉が「毒」と呼んだこの焦燥感が回っていく感覚の方が、ずっと生きている心地がした。
あの夜飲み干した、あの青臭いモヒートの余韻をかき消すように。
新界「……チッ、勝手にしろ
そのかわり、俺を巻き込むんじゃねえぞ
これ以上姉貴に寿命を削られてたまるか」
新界は苛立たしげに立ち上がると、白いジャケットの襟を乱暴に整えて組長室を後にした。
再び訪れた静寂。
俺は、自分の冷えた掌を見つめた。
あの子が言った「悲しそうな目」。
それがもし本当なら、俺をそうさせているのは、この「掃き溜め」そのものだ。
天利「……蓼原、シズカ」
初めて声に出して呼んだその名前は、ラムの苦味よりもずっと鋭く、俺の胸に刻まれた。
流されるままに生きてきた男が、初めて流れに逆らって、何かに手を伸ばそうとしている。
その先にあるのが、新界姉が警告した「破滅」か、それとも彼女がくれる「救い」か。
俺は再び執務用の椅子に腰掛け、真っ暗なパソコンの画面に映る、自分の「濁った顔」を静かに見つめ直した。
画面の中の俺は、やっぱり、どうしようもなく悲しそうに笑っていた。