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第3話 偶然、席を外します
狐が退出した後、栖梧は一人、訓練計画書へ向かっていた。
《厠使用技術、衣服操作、場所の認識に問題なし》
そこまでは、迷わず書けた。
問題は、この先だった。
《今後の訓練目標》
一、特定職員の同席時にも、厠の必要を適切に申告できる。
書いたところで、栖梧の筆が止まる。
本当に、それが必要だろうか。
狐は申告自体ができないわけではない。
他の職員には言える。一人で厠を利用できる。公共区画での生活にも支障はない。
できないのではなく、自分の前でだけ言いたくないのだ。
その羞恥を訓練によって乗り越えさせることが、今の狐に必要なのか。
「……違いますね」
栖梧は、書いた一文へ線を引いた。
訓練とは、苦手なことをすべて矯正するためのものではない。
由来生態と本人の感情を尊重しながら、安全に生活できる方法を身につけるためのものだ。
今回、優先すべきなのは。
狐が栖梧へ厠の申告をできるようになることではない。
栖梧の前でも、限界まで我慢せずに済むことである。
栖梧は、新たに書き直した。
《当面の対応》
《訓練時、本人が申告しやすい常駐職員を近隣へ配置する》
《訓練後半には、理由を問わず離席できる休憩時間を設ける》
《排泄を我慢している可能性が認められた場合、観察担当者は指摘せず、自然な形で一時退室する》
最後まで書き、栖梧は内容を確認した。
これなら、狐が栖梧へ直接申告する必要はない。
栖梧が席を外している間に、言いやすい職員へ伝えればよい。
羞恥を守りながら、身体も守れる。
「……これでいいでしょう」
「何が?」
突然、背後から声がした。
振り返ると、いつの間に戻ってきたのか、狐が扉の隙間から顔を出していた。
「訓練計画を調整していました」
「オレの?」
「はい」
狐は栖梧の隣まで来ると、記録板を覗き込んだ。
本人に関する支援計画である。栖梧も隠さなかった。
狐の目が、最後の一文で止まる。
「……これ、栖梧がオレの厠に行きたい気配を見抜くってことか?」
「必要な範囲で状態を確認します」
「結局、全部ばれてるじゃねえか!」
「直接は尋ねません」
「知らないふりして席を外される方が恥ずかしい!」
「では、私へ直接申告する訓練を行いますか?」
狐は固まった。
「私の顔を見て、『厠へ行ってきます』と伝える練習を――」
「席を外す方でお願いします!」
即答だった。
栖梧は記録板へ視線を戻した。
「では、当面はこの計画で進めましょう」
「でも、絶対に顔に出すなよ」
「何をです?」
「オレが厠に行きたいって気づいても!」
「気づいていません」
「今後の話だ!」
「今後も気づきません」
「嘘つけ! 気づいたから席を外すんだろ!」
栖梧は、ごく真面目な顔で答えた。
「訓練中、偶然席を外したくなることもあります」
「そんな都合のいい偶然、毎回あるか!」
「そのようなことにしておいてください」
栖梧が微笑む。
狐はしばらく、その顔を見つめた。
「……やっぱり、ずるい」
「何がです?」
「そうやって、オレのこと一番に考えるところだよ」
今度は、栖梧が黙る番だった。
狐は言い切ったことが恥ずかしくなったのか、真っ赤になって背を向ける。
「次の訓練も、絶対に来いよ!」
「私がいると、申告できないのでは?」
「それでも来い!」
「困りましたね」
そう言いながらも。
栖梧は、訓練計画から自分を外そうとはしなかった。
厠へ行くための経路は、これで確保できる。
ただし、狐が栖梧の前で素直に申告できるようになる日は、まだしばらく来そうになかった。
コメント
1件
うわ、この2人の距離感がじわじわ縮まってる感じがたまらんわ……。 栖梧が「気づいてるけど気づいてないふりをする」って方向に計画を組むところ、プロの仕事だなって思った。直接言わせる訓練より、羞恥を守りながら身体も守る方を選ぶの、めっちゃいい。 「そうやって、オレのこと一番に考えるところだよ」って狐が言ったとき、栖梧が黙ったの、そこすごい好き。お互いの気持ちがちょっとずつ見えてきてる感じがする。 次、どうなるんだろうな。楽しみにしてる🔥