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低気圧
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「衣が、痛い」
小さな声だった。
人型化して間もない鹿由来霊獣は、廊下の隅で自分の襟元を押さえていた。
まだ人の言葉には慣れていない。
けれど、教えられた通りに言えた。
衣が不快な時は、勝手に脱がない。
我慢もしない。
近くの職員へ申告し、更衣室を使う。
「衣が、痛い。替えたい」
今度は、もう少しはっきり言った。
呼び止められた職員は、鹿由来霊獣の襟元を見た。
「はいはい。まだうまく着替えられないんだね」
「できる」
鹿由来霊獣は答えた。
「替える。ひとりで、できる」
「遠慮しなくていいよ。人型になったばかりなんだから」
職員が手を伸ばす。
鹿由来霊獣は、一歩退いた。
「ひとりで、できる」
もう一度、伝えた。
だが、職員は笑った。
「転んだら危ないから。ほら、留め具を外してあげる」
指先が襟へかかる。
鹿由来霊獣の身体が固まった。
獣型なら、角を向けていたかもしれない。
脚で蹴り、逃げていたかもしれない。
だが、人型生活では、職員を威嚇してはいけないと教わっている。
衣を公共区画で脱いではいけない。
困った時は職員へ申告する。
教えられた通りにした。
それなのに。
何をすれば正しいのか、分からなくなった。
「その手を離してください」
静かな声がした。
職員の指が止まった。
廊下の向こうに、淡灰の上席衣をまとった男が立っていた。
澄明だった。
「澄明司救。いえ、これは――」
「先に、その方から離れてください」
声は穏やかだった。
だが、説明を挟む余地はなかった。
職員が手を下ろす。
澄明は二人の間へ入り、鹿由来霊獣の身体を隠すように立った。
「今、どのような申告を受けましたか」
「衣が痛いと。ですから更衣を手伝おうとしただけです」
「介助を求められましたか」
職員が黙った。
鹿由来霊獣が、澄明の背後から言った。
「ひとりで、できるって、言った」
「……本人はまだ人型化したばかりです。できると言っても、実際に安全かどうかは――」
澄明は職員を見た。
薄青い瞳には、怒りらしい激しさはない。
ただ、言い逃れの入り込む濁りもなかった。
「安全確認と、不必要な身体介助は別です」
「しかし、事故が起きてからでは遅いでしょう」
「ならば更衣室まで案内し、扉の外で待機すればよい。本人が困った時に呼べる距離を保つ。それが、この方の現在の支援段階です」
澄明は一度、鹿由来霊獣へ振り返った。
「一人で着替えられますか」
「できる」
「途中で困った場合は、誰かを呼べますか」
少し迷ってから、鹿由来霊獣は頷いた。
「呼べる」
「では、あなたが望む職員を入口へ待機させます。誰も中へ入りません」
鹿の耳が、わずかに起きた。
「……このひとは、いやだ」
「分かりました」
澄明は、それ以上の理由を尋ねなかった。
別の職員を呼び、更衣室への案内を任せる。
鹿由来霊獣が歩き出す前に、澄明は静かに付け加えた。
「あなたの申告は、正しくできています」
鹿の足が止まった。
「衣が痛いと伝えたことも、一人でできると伝えたことも、嫌だと言ったことも。すべて正しい申告です」
鹿由来霊獣は、しばらく澄明を見上げていた。
やがて、小さく頷く。
「おれ、間違えてない?」
「間違えていません」
鹿の耳が、ようやく自然な位置へ戻った。
*
鹿由来霊獣が更衣室へ入った後も、澄明はその場を離れなかった。
腰の司救節を外し、廊下脇の記録台へ置く。
淡青の文様が静かに灯った。
職員の顔色が変わった。
「正式な記録にするのですか」
「します」
「私は何もしていません。衣に触れる前に止められました」
「だから記録しない、とはなりません」
「悪意があったわけでは――」
「悪意の有無だけで、支援上の危険性は決まりません」
澄明は記録札を開いた。
「対象者は介助を求めていない。一人でできると二度伝え、身体を引いて拒否を示した。それでもあなたは、本人の衣へ手をかけた」
「善意です」
「善意という言葉で、本人の拒否を無効にしないでください」
澄明の声が、わずかに低くなった。
「人型化直後の方は、職員の指示へ逆らうことに慣れていません。威嚇や逃走を禁じられたばかりの方もいる。彼らが抵抗しなかったことを、同意と扱ってはならない」
職員は俯いた。
「……申し訳ありません」
「その言葉を、今すぐ本人へ伝えに行くことは認めません」
職員が顔を上げた。
「なぜですか」
「あなたが楽になるための謝罪を、支援対象に受け止めさせないためです」
澄明は司救節へ指を添えた。
淡青の光が、記録札へ移る。
「本日付で、人型化準備区域における直接支援業務から外れもらいます」
「そこまでの処分を?」
「現時点では、事実確認が完了するまでの一時停止です」
澄明は淡々と続けた。
「これまでの介助記録を確認します。同様の訴えがなかったか、担当者を替えた直後に対象者の状態が改善していなかったかも調べます」
「一度のことで、過去まで疑うのですか」
「一度目かどうかを、これから確認するのです」
職員は言葉を失った。
「問題が今回のみであり、理解不足によるものと確認できれば、境界線研修と監督付き配置を経て復帰を審査します」
澄明はまっすぐに相手を見る。
「ですが、拒否を理解したうえで軽視していた場合、または同様の行為を繰り返していた場合は、正式な懲戒対象とします」
「……はい」
「支援とは、できないことを奪って代わりに行うことではありません。できることを、本人が自分で行えるよう守ることです」
更衣室の扉が開いた。
鹿由来霊獣が、柔らかな衣へ着替えて出てくる。
付き添った職員が尋ねた。
「痛くない?」
鹿由来霊獣は襟元を確かめ、大きく頷いた。
「もう、痛くない」
澄明は記録札へ最後の一行を加えた。
対象者による衣不快申告――適切。
単独更衣――完了。
申告能力および生活技能――問題なし。
そして別欄に、職員側の支援逸脱を記録する。
できなかった者の記録ではない。
正しく訴えた者を、制度が裏切りかけた記録だった。
だからこそ、残さなければならない。
次に同じ声が上がった時。
今度こそ、最初の一言で守れるように。
コメント
1件
はい読んだよ〜〜〜!!😭💕 もうね、鹿くんが「おれ、間違えてない?」って聞くところで心臓ぎゅーってなった…。職員さんの「善意」がむしろ危ういって描き方、すごくリアルで考えさせられた。澄明さんの「楽になるための謝罪を受け止めさせない」って台詞、深すぎる…。 Hp2さん、今回もキャラの心情が細かくて、読んでて苦しくて温かかったです。支援って「できること」を守ることなんだなって改めて感じました。次も楽しみにしてます🌸