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#海辺の町
#ワンナイトラブ
「俺と二人になるのは嫌?」
頭の上から彼の声が降って来て、どきりとした。突然何を言い出すのかと戸惑い、私は振り返らないまま、大きくため息をついた。
「この前は不可抗力でしたけど、できれば二人きりになんて、なりたくないですね。だって、先輩はいつだって私をからかうだけだから」
矢嶋は私の進路を塞ぐかのように、すっとドアの前に移動した。
また何か意地悪なことでも言い出すに違いないと、私は身構えた。
しかし、彼が口にしたのは、私がここで働き始めたことへの疑問だった。
「この間、ものすごく驚いた。まさかここで、たこ焼きちゃんに会うなんて思ってもいなかったからな。なぁ、いつからここで働き始めたんだ?この前市川から初めて聞いたけど、お前、派遣で働いているんだってな。俺がここにいるってことは、知っていたはずだよな。それなのに、ここの仕事を受けたのか?嫌いな俺に会ってしまうかもしれないって、思わなかったのか?」
どうしていちいちそんなことを聞くのかと苛立ち、反発心が生まれた。そのせいで、ここが職場だということを忘れてしまい、私は反抗的な態度を取ってしまう。
「それはもちろん思いましたよ。だけど、背に腹は代えられないっていうか、ここのお給料、他と比べると断然いいんです。だから決めただけです。ところで、わざわざ私を番組の手伝いになんて言い出したのは、私をからかって職場でのストレスを解消しようとでも考えたからですか?それとも後輩の私なら、自分の言うことを何でも聞くだろうと思ったから?いずれにしても、仕事ならきちんとやらせていただきますけど、先輩も社会人としてちゃんと常識的な態度で私に接してくださいね」
気づいた時には、思いつくままに、しかもけんか腰の口調で言葉を並べてしまっていた。一時的にせよ、彼とはこれから定期的に仕事で顔を会わせることになるのに、攻撃的な態度を取るべきではなかったと後悔した。
私の態度に驚いたのか、それとも腹を立てたのか、恐る恐る見上げた矢嶋の顔は固まっていた。
低い声で彼は自嘲気味につぶやく。
「お前にとっての俺って、相当イヤなやつなんだな」
いつもの私なら、間髪入れずに「その通りだ」と返していたはずだ。しかし、私の気持ちを揺らしたあの夜が思い出され、私の言葉はキレを失う。
「で、でも先輩だって、私のことが嫌いですよね。だから、いつも名前も呼んでくれない……」
矢嶋は苦々しい声で言う。
「嫌いだったら、お前を俺の番組になんて、考えるわけがないだろ」
「は……?」
私は矢嶋の顔をまじまじと見つめた。
「嫌いだったら、あの時の飲み会で、泥酔したお前をわざわざ部屋まで運んだりもしない」
「でも、あれは……。誰かに頼まれて仕方なくですよね……?」
「違う。仕方なくなんかじゃない」
矢嶋は固い声で言い、私を真っすぐに見つめた。
よそ見をすることは許されないような気がして、私はやむを得ずその目を見返した。
「たこ焼きちゃんは、俺に『お前のことは嫌いだ』って言わせたいのか?」
「言わせたいのかって、そんな……。言いたいのなら、そう言えばいいじゃないですか」
「言えるわけないだろ」
矢嶋は私から視線を外そうとしなかった。
意味深な彼の視線をまともに受けて、私は落ち着かなくなった。騒ぎ出した鼓動の響きを持て余しながら、彼の言葉の意味を考えた。答えらしきものが浮かび上がりかけたが、そんなはずはないと、すぐさまそれを意識の底の方に沈める。いつの間にか、会話がおかしな方向に流れ始めている。それを止めたくて、私はあえて淡々とした口調で言う。
「とにかく、私のことは、ちゃんと名前で呼んでください。記憶力が悪い先輩のために改めて言いますけど、私の名前は川口夏貴ですから」
矢嶋は息を飲み、ゆっくりと瞬きをした。
「この流れを切るっていうのか……。まぁ、いい」
何が面白いのか愉快そうにくくっと笑い、彼は身をかがめて私の顔をのぞき込む。
「お前の名前、覚えているに決まってるだろ。この前の夜だって、ちゃんと呼んでやったじゃないか。『夏貴』って」
「あんなのは……」
ただの気まぐれじゃないかと言おうとした私の頭に、矢嶋の手がぽんと乗った。
「とりあえず、明後日からよろしくな、夏貴。いや、川口さん。これから少しずつ仲良くなろうぜ。それと、ここでは俺のことも、『先輩』呼びしなくていい。さっき辻さんを呼んでたのと同じようにな」
おずおずと見上げた彼の目は、柔らかに細められていた。
それを見た瞬間、どきりとする。ある時から憎たらしいとしか思わなかった彼の整った顔立ちが、なぜか急に甘いものに見えたのだ。
「さて、そろそろ戻るとするか」
矢嶋は扉を開けて、私が動き出すのを待っていた。
その面に浮かぶ微笑みに、心が揺れる。動揺したことを悟られまいとして、私は目を伏せながら彼の前を通り抜けた。
その時、覚えのある香りが鼻先をふわりとかすめた。彼に部屋まで運んでもらった夜に嗅いだ香りだと思ったら、鼓動が再びうるさく鳴り響き始める。
ここには仕事をするために来ているのにと、自分を動揺させる矢嶋に腹が立って仕方なかった。
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