テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
174
109
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
清々しい風が吹く日曜の朝、満島家は朝から妙にソワソワと落ち着きがなかった。
リビングの黒い革ソファに腰掛けた父親は、リモコンをぽちぽち押してはいるものの、画面に映るのは幼児向けアニメの主人公が飛び跳ねる姿。
目がまったく追っていない。
瑠璃は焦茶色の鈴蘭プリントのAラインワンピースに袖を通し、部屋の姿見の前に立っていた。
足先から頭のてっぺんまで何度も確認し、後頭部でまとめた髪を直す。
背中を向け、斜め四十五度から左右に体を傾け、胸元の開き具合や裾のほつれを何度もチェックした。
問題はない。
なのに、心臓の音がうるさい。
コンコンコン。
「瑠璃、もう時間じゃないの?」
「う、うん」
「ちょっと見せなさい」
「開けるわよ」
母親が部屋に入ってきた瞬間、ベッドの上に散乱した洋服の山を見て呆然とした。
「で、それを選んだのね」
「うん……変かな」
「いいんじゃない? 先方で正座するなら、ふんわりした裾の方が崩れても目立たないわよ」
「え、失礼じゃない?」
「引き攣った顔で座ってるよりはマシよ」
「そ、そうか……」
母親はため息混じりに洋服をハンガーに掛けながら、瑠璃の後れ毛を指で直した。
そして背中をポンポンと軽く叩く。
「瑠璃、良かったわね」
「う、うん」
「実はお父さんには内緒にしてたんだけど……あなた、奈良さんって人と付き合ってたんでしょ?」
「え……」
「寿ちゃんと話してるのが聞こえちゃってね」
「そ、そうなんだ」
「ごめんね、心配してたのよ。ずいぶん暗い顔ばかりしてたから」
「ううん……」
「でも今日は久しぶりに嬉しそうな顔してるわ」
「そ、そか……」
母親に背中を押され、瑠璃は焦茶のショルダーバッグを肩に掛けて階段を降りた。
リビングではアニメのエンディングテーマが流れていた。
カーペットに座って足の爪を切っていた弟の葵が、父親のふくらはぎを突っつく。
「お、おう、瑠璃か」
「うん」
「これ、持って行け」
机の上には森八のささ舟と、生姜砂糖をまぶした煎餅の紙袋が置かれていた。
父親は声を落ち着かせようとしているのに、目が左右に泳いでいる。
「父ちゃん、何、緊張してんの?」
「お、おう」
「別に今から結婚式に行くわけじゃないんだぜ」
「け、結婚……式」
父親の顔が一瞬で青ざめた。
「あ、お父さん! 黒木さんのお家の人に反対されるかもしれないから!」
「は、反対されるのか!?」
「されないされない!」
母親が慌てて父親の肩を両手で押さえ、ソファに深く座らせた。
「姉ちゃん、黒木の写真ねぇの? 見せろよ」
「え、あるよ」
「見せろよ。父ちゃんも見たいだろ?」
「……見たい」
瑠璃が渋々携帯を取り出し、無難そうな一枚をリビングテーブルに置いた。
(頰を寄せ合ったりキスしている写真は絶対に見せられない)
「まじ、ちょーーーカッケェじゃん」
「そうだな、格好いい男だな」
「これで会社の支店長の息子……」
「そうだな、偉い人の息子さんだな」
「しかも瑠璃の係長……」
「そうだな、いつも世話になっている人だな」
父親は眼鏡をくいっと上げ、瑠璃の顔をまじまじと見た。
「瑠璃」
「う、うん」
「気張って、気に入られて来なさい」
「は、はぁ?」
「頑張れ」
「はぁ……」
その瞬間、玄関のインターフォンが鳴った。
誰よりも早く母親がリビングから飛び出し、引き戸をガラガラと勢いよく開けた。
「黒木と申します。初めまして」
「うわっ、きゃーーーーーーー!」
「お母さん、止めて! く、黒木さん、ごめんなさい!」
満島瑠璃、25歳。
生まれて初めて、恋人の両親に紹介される朝だった。
満島家の玄関先には、微妙な顔をした父親、満面の笑みの母親、そして親指を立てて口笛を吹く弟の葵の姿があった。
「それでは、また改めてお伺いさせて頂きます」
「はい、お待ちしてます! ほら、お父さんも!」
「お、おう」
「おう、じゃないでしょ!」
瑠璃は黒木に促され、家族に軽く会釈をすると、黒いクラウンの助手席に滑り込んだ。
シートベルトを装着し、パワーウィンドウを少し下ろす。
黒木がもう一度満島家に向かって丁寧に会釈をすると、車は静かに発進した。
後ろから弟の声が響く。
「ちょーーーかっけえ」
「あんな大きな車、初めて見たわぁ」
「タイヤ、デカかったな」
家族に見送られた瑠璃は、膝の上で手をぎゅっと握り、もじもじと下を向いたままだった。
流れる景色に目をやる余裕もなく、チラチラと黒木の横顔を盗み見る。
口元が、嬉しそうに綻んでいた。
「なに? 視線が痛いんだけど」
「緊張します……」
「私だって緊張しましたよ」
「平気そうでしたよ」
「初めて会う取引先の社長と専務と部長だと思って挨拶してました」
「しゃ、社長って……」
「やっと笑いましたね。いつも通りで大丈夫です」
「そ、それでも……やっぱり緊張します」
黒いクラウンはいくつかの交差点を過ぎ、兼六園を越えて山側環状線に合流した。
オレンジ色の街灯が灯るトンネルを抜け、両脇に杉林を眺めながら、金沢市郊外の新しく整備された住宅街へと滑り下りていく。ウインカーがカチカチとリズムを刻む。
瑠璃は膝に置いた手土産の紙袋の持ち手を、ぎゅっと握りしめた。
「前は会社に近いマンションに住んでいたんだけど、二世帯住宅を建てることになって新大桑に引っ越したんだ」
「え……」
「なに?」
「えっと……今、聞いてはならないことを聞いたような気がします」
「なに?」
「二世帯……住宅」
「うん」
「長男だから同居だけど……言ってなかった?」
「き、聞いてません! 嘘ぉぉぉぉ!」
「駄目なら帰るけど」
「帰りません! けどぉぉぉぉ!」
瑠璃の脇に、じわりと冷たい汗が滲んだ。
いや、その前に黒木の両親から合格点をもらわなければならない。
そう思った瞬間、今度は膝裏に汗が伝った。
まさか、いきなり二世帯住宅での対面になるとは――
想像すらしなかった。