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第1話 これでは、怨霊らしくない
「……恨めしや……」
低く引き延ばした声が、揺らぐ熱気の中へ落ちた。
真夏の正午。
古井戸の傍らに、全身を黒衣で覆った男が立っている。
陽を遮るものはない。古井戸を囲む石は白く焼け、遠くの景色まで熱に歪んでいた。
その中で、男だけが頭から足首まで黒い。
青白い顔。乱れた長い髪。首元まで隙間なく閉じられた黒衣。
姿だけを見れば、申し分のない怨霊だった。
ただし、額から流れ落ちる汗を除けば。
「……恨めしや……」
もう一度、声を響かせる。
古井戸から少し離れた場所では、伝承を確かめに来た男たちが、こちらを遠巻きに見ていた。
「なあ」
一人が、隣の男へ囁く。
「あの怨霊、顔色悪くないか」
「怨霊だからだろ」
「いや、そういう青白さじゃなくて」
「どういう青白さだよ」
「具合悪そうな青白さ」
男は聞こえないふりをした。
人界人の前では、伝承に記された怨霊として振る舞う。話しかけられても、決められた言葉以外を口にしない。勝手に古井戸を離れない。
それが任務である。
男は本物の怨霊ではない。
人界で生涯を終えたのち、天界へ所属した仙人だった。
この土地には、真夏の特定日の正午、古井戸の傍らに黒衣の怨霊が現れるという伝承がある。その祈りと恐れに応じ、怨霊相を纏って人界へ降臨する。それが、男へ割り当てられた年に一度の任務だった。
日付、時刻、場所、黒衣。
すべて伝承との整合に必要な条件である。
降臨前の最終確認でも、男は今年も同じことを尋ねていた。
「黒装束、もう少し風が通るようにならないか?」
天界事務局・降臨班の担当官は、前年の記録と目の前の黒衣を見比べながら答えた。
「外見を変えるな。人界で『別の怨霊も出た』と伝承が枝分かれしたら、それを世界線ごと調整するのは灯台だ。担当の調整員から『また余計な世界線を増やした』とつつかれる」
「襟元を少し開けただけで、世界線が増えるのか?」
「人界の伝承を侮るな。髪が長いか短いかだけでも、百年後には別の怨霊になっている」
「面倒くさいな、人界」
「その面倒くさい人界へ、今から降りるんだろうが」
担当官の男が手を伸ばし、わずかに開いていた黒衣の合わせ目を、容赦なく首元まで閉じた。
指先が喉元を掠め、仙人の背筋が伸びる。
「……顔が赤いぞ」
「黒衣が暑いからだ」
「百年以上やってるんだから、いい加減慣れろ」
「任務には慣れてる」
「じゃあ、何に慣れてないんだ」
「……知らん」
担当官の手が離れると、仙人は整えられた襟元へ触れた。
「これで怨霊らしくなった」
「最初からだ」
それも、毎年繰り返してきたやり取りだった。
確認を終えた担当官は、記録板を閉じた。
「今年も来たな」
「ああ。何度やっても、この日は気が引き締まる」
「百年以上やってる男の台詞か?」
「百年以上やってるからだ。今年も成功させるぞ」
「当然だ。終わったら、いつもの記録合わせをする」
「ああ。また後で」
その言葉を最後に、男は怨霊相を纏って人界へ降りた。
「……恨めしや……」
黒衣の内側は、すでに熱の逃げ場を失っていた。
汗を吸った布が背へ張りつき、息を吸えば熱い空気が肺へ入ってくる。古井戸から数歩離れれば木陰がある。だが、そこへ移れば古井戸の怨霊ではなくなる。
(去年、こんなに暑かったか……?)
視界の端が揺れた。
額の奥が鈍く痛む。喉も乾いている。
だが、まだ立てる。
声も出る。
なら、問題ない。
問題があるかどうかを、根性で決め始めていた。
「ほら、やっぱり悪くなってるぞ」
見物していた男が言った。
「汗もすごい」
「怨霊って汗かくのか?」
「俺に聞くなよ」
「水、要るんじゃないか?」
「怨霊にどうやって渡すんだよ」
男は奥歯を噛み締めた。
(要らん)
正確には、死ぬほど欲しい。
だが、百年以上この古井戸に立ってきた怨霊が、人界人から水を受け取るわけにはいかなかった。
(まだいける)
怪異を恐れる声より、心配する声の方が増えている。
まずい。
これでは怨霊らしくない。
男は姿勢を正し、もう一度声を出そうとした。
その途端、胃の奥から吐き気が込み上げた。膝から力が抜け、古井戸の縁へ手をつきかける。
まだ任務時間は残っている。
この日を、百年以上あの男と成功させてきた。
降臨前に前年の記録を照らし合わせ、細かなずれを直す。任務を終えれば、今年も成功だったと確認する。そして最後に、「また来年」と言って別れる。
そこまで終えて、ようやく今年の任務は完遂になる。
(今年だけ、途中で終われるか)
暑さが何だ。
立て。
声を出せ。
あと一度くらい、いける。
「……うら……」
声が掠れる。
(出せ)
「……めし……や……」
最後の音を絞り出した瞬間、古井戸が傾いた。
違う。
傾いたのは、自分の方だった。
「おい、倒れるぞ!」
「誰か、医者を呼べ!」
「怨霊に医者!?」
「倒れたんだから医者だろ!」
膝が折れる。
黒衣に包まれた身体が焼けた石へ崩れ落ち、その輪郭を白い光が包んだ。
行動不能を検知した強制送還処置が発動し、男の降臨相が人界から切り離される。
「消えた!」
「怨霊が倒れて消えたぞ!」
「やっぱり具合悪かったんじゃないか!?」
騒ぎだす男たちの声が遠ざかり、視界が白く塗り替えられていく。
今年も、いつもの記録合わせをするはずだった。
あの男に、「また来年」と言うはずだった。
そこまで辿り着けなかったことを認められないまま、仙人の意識は途切れた。
コメント
1件
読了しました〜!怨霊のフリしてるのに暑さでバテる仙人、めっちゃ人間味があって笑っちゃったけど、倒れる直前まで「また来年」を言いたくて頑張ってたところが切なかったです…。黒衣の内側の熱描写がリアルで、こっちまで暑くなりました。強制送還で終わったラスト、続きが気になります🌙