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「秘書だ」
社長は、それだけ答えた。
一本の線。奥様ですか、という問いに、はいともいいえとも言わずに。
大河内社長は、一瞬だけ私の顔を見て、すぐに興味を失ったように笑顔を社長に戻した。地味な眼鏡の女は、この人の目には、秘書以外の何にも見えないらしい。
「昨夜は、いかがでしたか。おかげさまで、満室でございまして。行き届かないところがあったのではと」
「五階と六階の、十二室」
社長の声は、朝のロビーで、静かによく通った。
「清掃が不要の、坂井という社員の名前の部屋だ。昨夜、あそこには誰が泊まっていた」
大河内社長の笑顔が、口ひげの下で固まった。
けれど、それは一瞬だった。
「ああ、あれは。社員の、福利厚生の利用でございます。現場はいつも休みが取れませんので、空いた部屋を、社員の家族に安く使わせておりまして」
言い終えると同時に、彼の鼻の脇が、ふくりと一度だけ膨らんだ。
――ぶれた。
私はカーディガンのポケットの中で、ペンを二回鳴らした。カチ、カチ。
社長は振り返らなかった。
「そうか。では、役員会で、その福利厚生の中身を説明してもらう」
「や、役員会で、でございますか」
「来週の月曜に、臨時で開く」
社長は、フロントにカードキーを二枚置いた。
「世話になった」
*
翌週の月曜日。四十二階、大会議室。
楕円のテーブルを、役員と本部長が囲んでいる。その一番端、社長の真後ろの壁際に、私が座っていた。
大河内社長は、分厚い資料を抱えて現れた。
福利厚生の利用規程。社員の家族の宿泊の申込書の束。日付も、判子も、きちんと揃っている。
「以上のとおり、十二室は、すべて社員の福利厚生の利用でございます。稼働率の計算に含めたのは、確かに、少々配慮が足りませんでしたが」
「総務の坂井ってのは、忙しい男なんだろうよ」
堂島常務が、腕を組んで笑った。
「福利厚生の申込みを、まとめて一人の名前でやったんだろう。事務の手抜きだ。坊ちゃん、そう目くじら立てるようなことじゃねえよ」
会議室の何人かが、苦笑いでうなずいた。
社長は、資料をめくる手を止めなかった。
「瀬名」
私の名前が、会議室に落ちた。
役員たちの視線が、一斉に壁際に集まる。グレーのカーディガン。黒縁の眼鏡。誰だ、と言いたげな顔が、いくつも並んだ。
「大河内社長に、質問をしろ」
立ち上がると、膝が少しだけ震えた。
眼鏡を外す。
楕円のテーブルの向こうで、大河内社長の顔が、くっきりと見えた。
「はい、か、いいえで、お答えください」
私は言った。
「一つ目。十二室の予約は、すべて坂井さんの名前で入っていましたか」
「……はい」
一本の線。
「二つ目。坂井さんは、鷹宮リゾートの総務部に、実在する社員ですか」
「はい」
一本の線。
「三つ目。その十二室の宿泊代は、福利厚生費として、本社に請求されていましたか」
大河内社長の目が、ちらりと堂島常務のほうへ泳いだ。
「……はい」
一本の線。
ここまでは、全部本当だ。
私は、四つ目を口にした。
「十二室の宿泊者は、実在しますか」
「はい」
答えた瞬間、大河内社長の鼻翼が、ふくりと膨らんだ。伊豆のロビーで見たのと、同じ動きだった。
――ぶれた。
「今の、嘘です」
会議室が、ざわりと揺れた。
「な、何を」
「五つ目です」
私は、震えそうになる声を、膝の上のペンを握ることで押さえた。
「その宿泊代は、ホテルの客室の売上として、計上されていましたか」
大河内社長は、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
社長が、柏木室長に目で合図した。
室長が、役員全員の前に、薄い資料を配っていく。
「鷹宮リゾート総務部、坂井主任の聞き取りの記録です」
室長は、いつもの報告口調で読み上げた。
「坂井主任は、一月から三月まで、伊豆のホテルに一泊もしていません。名前を貸すよう、大河内社長から直接指示されたと証言しています。申込書の判子は、総務部の共用の印鑑箱にあった、本人の認印です」
資料の二枚目には、土曜の夜の、がらんとした駐車場の写真。三枚目には、清掃の指示表の写し。赤いゴム印の「清掃不要」が、十二並んでいた。
社長が、初めて大河内社長を正面から見た。
「空いた部屋に、社員の名前で、泊まる人間のいない予約を入れる。宿泊代は、福利厚生費として本社に請求する。本社が払った金は、ホテルの売上になる」
社長の声は、最後まで平らだった。
「稼働率も、売上も、連結の数字も、全部膨らむ。鷹宮の金で、鷹宮の決算に化粧をした」
大河内社長の口ひげが、細かく震えはじめた。
「わ、私は、リゾートの、現場の皆を、守ろうと……三期連続の赤字では、売却の話が、本社から」
「本社の誰からだ」
大河内社長は、口を開いて、閉じた。
「鷹宮リゾートの大河内社長を、本日付で解任する。後任は、今週中に子会社管理部から出す」
社長の言葉に、テーブルの中ほどで、副社長が穏やかにうなずいた。
「子会社管理部としても、異論はないよ。大河内くんには、気の毒なことだけれどね」
一本の線。
大河内社長が、両脇を抱えられるようにして会議室を出ていく。誰も、目を合わせなかった。
社長は、堂島常務に視線を移した。
「堂島。君は、この件を知っていたか」
常務は、太い腕を組んだまま、鼻を鳴らした。
「知らなかったね。リゾートのことは、大河内に任せてた。細けえ数字なんざ、いちいち見ちゃいねえよ」
私は、常務の顔を見ていた。三秒、四秒。
一本の線。
本当に、知らなかったのだ。この人は、知らないふりをする必要さえないほど、細部を人に任せきっていた。
私は、もう一度眼鏡を押し上げた。
読めない、ではない。読めたうえで、何も出てこない。
先週の役員会で「坊ちゃん」と大声を上げた人を、私はここで詰めることができなかった。
*
役員会が終わり、役員たちが立ち上がりはじめたときだった。
社長が、自分の隣の空いた椅子を、片手で引いた。
楕円のテーブルの、社長の右隣。本来なら、副社長の次に偉い人が座る場所。
会議室の中の全員が、動きを止めた。
社長は、壁際の私を見て言った。
「次からは、ここだ」
誰も、何も言わなかった。
堂島常務が、葉巻の匂いのする鼻息を一つ吐いた。副社長は、柔らかく目を細めていた。
私は、外したままの眼鏡を握って、立ち尽くしていた。
地味な派遣が、氷の社長の隣に座る。今夜の給湯室は、きっとその話で持ちきりになる。
*
夜八時。
社長は会食に出ていて、四十三階には私しかいなかった。
役員会の資料を、社長の執務机の二段目の引き出しに戻す。それが、秘書の今日最後の仕事だった。
資料をしまって、立ち上がろうとしたとき、膝が一番下の引き出しに当たった。
かすかに、引き出しが手前に滑った。
一番下の段は、いつも鍵がかかっている。社長が自分で鍵を持ち歩いている、唯一の引き出しだ。
その引き出しが、指一本分だけ、開いていた。
閉めればいい。
そう思って、取っ手に手をかけた。押し戻そうとした指の先に、ファイルの背表紙が見えた。
黒い、古びた紙のファイル。手書きのラベルが貼ってある。
『鷹宮不動産 特別調査(十五年前)』
指が、止まった。
十五年前。
その数字を、私は一日も忘れたことがない。
廊下は静かだった。エレベーターの動く音もしない。
私は引き出しを、もう少しだけ開けた。ファイルを取り出し、机の上で、表紙をめくった。
一枚目は、関係者の一覧だった。
役職と名前が、表になって縦に並んでいる。
その一番上に、父の名前があった。
真野誠一。
コメント
1件
第10話、読み終えました…! 役員会で眼鏡外して質問していくシーン、めっちゃ痺れました🖤 大河内社長の鼻の脇が「ぶれた」描写、二回出てきたときは「あっ」て声出ました。嘘を見破る感覚、ちゃんと映像が浮かぶ書き方で、現場に立ち会ってる気持ちになりました。 最後の引き出し…十五年前のファイル、お父さんの名前。これはもう、止まれないやつですね。続き、静かに待ってます🌙
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