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#契約結婚
草原草原

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草原草原

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真野誠一。
その四文字の下に、細い字で「鷹宮不動産 経理課長(当時)」と添えてあった。
二枚目をめくろうとした指を、エレベーターの到着音が止めた。
廊下の向こうで、扉が開く。清掃のワゴンの車輪の音。
私はファイルを閉じ、引き出しに戻した。押し込みかけて、手を止める。
最初に見たとき、引き出しは指一本分だけ開いていた。
指一本分。そこまで戻して、手を離した。
ワゴンの音が、社長室の前を通り過ぎていく。
私は自分の机の鞄をつかんで、照明を消した。
なぜ、社長の机に父の名前があるのか。
十五年前の調査のファイルを、どうして鍵のかかる引き出しにしまっているのか。
聞けばいい。明日の朝、コーヒーを置くときに。
聞けば、私が引き出しを開けたことも、その名前が私にとって何なのかも、全部話すことになる。
エレベーターの鏡に、眼鏡をかけた地味な女が映っていた。
人の嘘なら、いくらでも見抜けるのに。明日の朝、自分が何を言うつもりなのかだけは、少しも見えなかった。
*
葛飾の駅から三百メートル、街灯の切れた道を歩いて、アパートの外階段を上がった。
二階の一番奥。母が入院してから、帰っても誰もいない部屋。
鍵を差し込もうとして、手が止まった。
ドアノブの下の金具が、斜めにねじれている。鍵穴のまわりに、細い傷が何本も走っていた。
ノブを引くと、鍵を回す前に、扉が開いた。
台所の引き出しが、全部抜かれていた。
六畳の部屋の真ん中に、衣装ケースの中身がぶちまけられている。母のセーター、私の三着目のカーディガン、通帳の入っていた缶。
押入れの襖が開いていた。
上の段の、一番奥。
父の遺品を入れた段ボール箱の蓋が、開いていた。
私は靴のまま上がりそうになって、一度引き返して靴を脱いだ。そんなことをしている自分が、少しおかしかった。
箱の中には、父の古い背広のネクタイ、腕時計の空き箱、年賀状の束、役所の封筒。
全部ある。
ただ、順番が違う。年賀状の束は、いつも一番上に置いていた。今は、一番下に入っている。
一つずつ確かめるように、誰かが全部を取り出して、また戻したのだ。
棚の上を見た。
母の湯飲みと、ラジオと、小さな写真立て。
写真立てだけが、伏せてあった。
起こすと、ガラスの向こうで、四十代の父が笑っていた。私が十歳のとき、遊園地で母が撮った一枚だ。
ほかの物は、全部倒れたままなのに。
これだけが、丁寧に、顔を下にして伏せてあった。
*
警察は、三十分ほどで来た。
制服の巡査が二人。一人が部屋の写真を撮り、もう一人がメモを取る。
「通帳と印鑑は、無事なんですね」
「はい」
「現金は」
「もともと、置いていません」
「物盗りにしちゃ、妙だなあ」
年配のほうの巡査が、散らかった部屋を見回した。
「何か、心当たりはありますか。恨まれるようなこととか、最近、誰かとトラブルになったとか」
心当たり。
今夜、社長の引き出しで見た四文字。十五年前。鷹宮不動産。
伏せられた写真立て。
「ありません」
言い終えて、私は巡査の顔を見た。
巡査は何も気づかずに、メモ帳に「心当たりなし」と書いた。
人の嘘は、いつも見えるのに。
自分の嘘は、誰にも見えないまま、こうして紙に書かれていく。
父は、十五年前に死んだ。
勤め先の会社のお金を横領したとされて、調べが始まって三か月後、雨の夜に車ごとガードレールを越えた。
事故だったのか、そうではなかったのか、誰も言わなかった。
母は旧姓の瀬名に戻り、私も家庭裁判所で名字を変えた。真野灯は、十一歳で終わった。
その父の勤め先の名前を、私は巡査に言わなかった。
*
巡査たちが帰ったのは、十一時を過ぎたころだった。
私は、鍵の壊れた扉の内側に、椅子を一脚かませて座った。
明日は、いつもどおり七時半に四十三階へ上がらなければいけない。けれど、この扉を開けたまま出ていくわけにもいかない。
秘書の決まりを思い出して、柏木室長にメッセージを送った。
『夜分に失礼します。自宅に空き巣が入りました。けがはありません。鍵の修理の手配のため、明朝の出社が遅れる可能性があります』
既読は、すぐについた。
返事は来なかった。
そのかわり、十二時を少し過ぎたころ、アパートの前の細い路地に、エンジンの音が止まった。
外階段を、誰かが一段飛ばしで上がってくる。
扉が叩かれた。
「瀬名」
椅子をどけて扉を開けると、社長が立っていた。
会食のときのスーツのまま。ネクタイだけが、少し緩んでいる。走ってきたみたいに、息が上がっていた。
「……どうして」
「柏木から聞いた」
一本の線。
社長は私の頭から足先までを一度見て、それから部屋の中に目を移した。抜かれた引き出し。ぶちまけられた服。開いた押入れ。
その目が、棚の上の写真立てで、一瞬止まった気がした。
「けがは」
「ありません」
「盗られた物は」
「ありません。通帳も、現金も」
「心当たりは」
社長は、私の顔を見ていた。
私は、その目を見返した。
「ありません」
二度目の嘘だった。
社長は何も言わなかった。少しのあいだ、黙って私を見ていた。
「私は、君の顔は読めない」
平らな声だった。
「だから、それ以上は聞かない」
一本の線。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
社長は廊下に出て、どこかへ電話をかけた。
「夜分に申し訳ない。鷹宮です。瀬名春江さんの病室を、明日の朝一番で個室に移してください。費用は私の名前で。それから、面会の受付は、家族と私だけに」
電話を切ると、社長は振り返った。
「お母さんの病室は、鍵のかかる個室に移す。今夜のうちに、病院の警備にも話を通した」
「そんな、そこまでしていただくわけには」
「君の家に入った人間は、何も盗っていない」
社長は、伏せてあった写真立てのほうを見ずに言った。
「盗る物を探しに来たんじゃない。何かを確かめに来た。次に確かめに行くのが、ここか、病院か、私にはわからない」
背中が、冷たくなった。
「扉の鍵は、明日の朝、業者を入れる。柏木に手配させた」
社長は、ねじれた金具を一度だけ見た。
「荷物をまとめろ。三日分でいい」
「どこに、ですか」
「今夜から、私の家に来い」
*
目黒川沿いの、低い建物だった。
五階建ての最上階。エレベーターを降りると、扉が一つしかない。
部屋の中は、黒と白しかなかった。
黒い床、白い壁、黒い革のソファ。広いアイランドキッチンには、鍋の一つも出ていない。生活の匂いが、どこにもしない部屋だった。
「客間は、突き当たりの手前だ」
社長は廊下を歩きながら、私のボストンバッグを持っていた。返してくださいと言っても、返してくれなかった。
「洗面所はその向かい。浴室は、好きな時間に使え」
廊下の一番奥に、扉が一つある。ほかの扉より色の濃い、木の扉。
社長はその前で、足を止めた。
「書斎だ」
振り返らずに言った。
「そこには入るな」
一本の線、だったと思う。背中しか見えなかった。
客間の扉を開ける。
小さな部屋だった。白いベッド。窓の向こうに、暗い川と、葉桜の影。
ベッドの掛け布団の上に、何かが置いてあった。
新品の歯ブラシ。袋に入ったままのタオル。
それから、きれいに畳まれた、生成りの部屋着の上下。
手に取って、広げてみた。
袖の長さも、肩の幅も、私にぴったりだった。値札は、もう切ってあった。
廊下を振り返る。
社長は、リビングの明かりを落としているところだった。
「社長」
「なんだ」
「これ、いつ買ったんですか」
社長は、明かりのスイッチに指をかけたまま、こちらを見なかった。
「早く寝ろ」
リビングが暗くなる。
彼は何も答えずに、廊下の奥の、自分の部屋へ入っていった。
コメント
1件
うわ、めっちゃ重くて熱い回だった……!父の名前が出てきた机の引き出し、そして荒らされた部屋で伏せられてた写真立て——全部が繋がってて鳥肌立ったわ。社長が「君の顔は読めない」って言うところ、めちゃくちゃ刺さった。何も盗られてないのに何かを確かめに来たって台詞、ヤバかった。これからどうなるんだろう……続きが気になりすぎる🔥