テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
病院から帰宅した健一は、もはや人間としての形を保っていなかった。
里奈に「介護」という名の暴言を浴びせられ
病床の母親からは「お前なんて産まなければよかった」と、震える手で追い払われたのだ。
彼はリビングの暗闇の中、虚ろな目でキッチンにある包丁を見つめていた。
「……奈緒。もう、終わりにさせてくれ」
掠れた声が、静寂に溶ける。
「俺が死ねば、お前の気も済むだろ。…このまま生きていても、俺には一滴の価値もないんだ」
私はソファに座り、お気に入りの洋菓子を一口食べ、ゆっくりと咀嚼した。
「そうね、確かに今のあなたには、ゴミ以下の価値しかないわ。でも、健一さん。勝手に終わらせていいなんて、誰が許可したの?」
「……っ、これ以上、何をしろって言うんだ!仕事もない、金もない、親にも捨てられた!これ以上、何を奪えば気が済むんだよ!!」
健一が包丁を手に取ろうと、フラフラと立ち上がる。
私は動じず、手元のスマホを操作した。
「……死ぬのは勝手だけど、あなたが今ここで死んだら、あなたの『生命保険』は一円も私に入らないわよ。受取人を変更する手続き、まだ終わっていないもの」
健一の動きが止まる。
「それにね、もしあなたが今死んだら、ナオミのアカウントでこう発表するわ。『実は家政婦ではなく実の夫であり、不倫の代償として家政婦をしてもらっていました』ってね。あなたの死は、ナオミのフォロワーたちの『最高のエンターテインメント』として消費される。……死んでもなお、叩かれ笑われ続けるのよ」
健一の目から、大粒の涙が溢れ出した。
死ぬことさえ、自由にならない。
死ぬことさえ、奈緒の「演出」の一部にされてしまう。
「……う、うああああああ!!」
健一は包丁を放り出し、床に突っ伏して慟哭した。
私は彼に歩み寄り、その汚れた髪を優しく、慈しむように撫でた。
「可哀想に。……ねえ、健一さん。そんなに辛いなら、一つだけ『希望』をあげましょうか?」
健一が、縋るような目で私を見上げた。
「希望……?俺に、まだそんなものが……」
「ええ。実はね、ナオミのフォロワーの中に、あなたを『再教育』して、もう一度社会に復帰させたいっていう物好きなパトロンがいるの」
「……その人の指示に従えば、あなたはもう一度、外の世界を歩けるかもしれないわ」
「……本当か!?また、働けるのか!?」
「ええ。ただし、そのパトロンとの連絡は、すべて私を通してもらうことになるわ」
健一は、地獄で見つけた蜘蛛の糸を掴むように、私の手に顔を押し付けた。
(……バカね、健一さん)
そのパトロンなんて、もちろん存在しない。
私が彼に「指示」を出し
彼を遠隔操作でさらに過酷な「労働」……
例えば、里奈の借金の肩代わりや、過酷な肉体労働のバイトに追い込むための罠。
私は彼を、家という檻から、社会という名の「公開処刑場」へと再び解き放つ準備を始めた。
(愛してるわ、健一さん。……あなたが壊れるその瞬間まで)
私の胸の中で泣き続ける夫。
その背中を叩きながら、私は次の「マスカレード」のシナリオを書き連ねていた。
73
#大人ロマンス
#サレ妻