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「こっちって……名古屋に?」
母は驚いたように私を見る。
「うん。すぐに一緒に住めるわけじゃないけど、いずれは考えないと。……お兄ちゃんが帰ってくるかも分からないし」
「……」
母は何も言わず、私に視線を留めている。
「私のマンションの近くに、お母さんの部屋を借りることもできるし。病気だって私が診る。不整脈なんだから専門だよ。気兼ねなく通えるでしょ」
「亜紀? 急にどうしたの」
母の声が、少しだけ硬くなった。
「……え」
言いかけた言葉が喉の奥で止まる。
「びっくりするよ。亜紀が私に“あの家から出ろ”なんて言うから」
「違うよ。お母さんも役場の仕事がなくなったら、こっちの方が便利かなって思っただけで」
慌てて笑顔を作る。
「役場の仕事がなくなっても、婦人会やらなんやらで忙しいんだよ。これでも副会長だでね。みんなに頼られとるんだ」
私の言葉が気に入らなかったのか、母は少しだけ口を尖らせた。
「あ……そっか。ごめん」
気まずさを誤魔化すように視線を落とす。
「亜紀は優しい子だで。母さんは大丈夫。不整脈も何年も出とらんし、薬も減っとるくらい安定しとる。本当に困ったら亜紀に相談するでいい」
「……うん」
「それに、啓太は……お兄ちゃんはあの家に帰ってくる。自分の家に帰って、誰もおらんなんて寂しいことはないで。母さんは、父さんと啓太と亜紀と暮らしたあの家から離れる気はない」
母は穏やかに笑い、再び夜景へ視線を向けた。
胸の奥がじわりと熱くなる。
「そうだよね。ごめん、余計なお世話だったね」
視線をそらす。
「母さん、あの町が大好きだもんね」
「ほうだよ。あの町が大好き。でも父さんはもっと好き。あの家で見守ってくれとるから」
母は楽しそうに笑った。
「はいはい、ごちそうさま。娘の前でよく惚気られるね」
思わず小さく笑ってしまう。
駅から徒歩五分のシティホテルのロビー。
「わざわざ来てもらったのに、ホテルでよかったの?」
チェックインを終えた母に声をかける。
「最初からホテルのつもりだったで。亜紀も遼一さんも仕事だろ。昼までに役場にも行きたいし、駅近い方が都合ええんだ」
「そっか」
「見送りはここまででええよ。早う帰って、旦那さん待っとってあげな」
母は軽く手を振った。
「早く」
その言葉に押されるように、私も手を振ってロビーを出た。
夜の街は騒がしい。車のエンジン音とクラクション。行き交う足音。
その喧噪の中に消えていく背を見送りながら、誰にも届かない声が落ちた。
「……妻は、愛する夫の帰りを待っててあげないとね」
皮肉めいた言葉を拾い上げるように、湿った夜風が肌にまとわりつく。
視線を外して息をつき、そのまま駅へ向かった。
母と食事をした駅から、地下鉄で二十五分。
降りたホームは、蝉の鳴き声だけが夜空に響いていた。地上へ上がると、まだ熱の残る夜風が頬をかすめる。
さらに五分ほど歩く。茶色い十二階建てのマンションが、夜の中に沈むように立っていた。
八階のボタンを押す。エレベーターのランプがゆっくりと点灯していくのを見つめる。
コツ、コツとヒールの音だけが、静かな空間に響いた。
玄関の前で立ち止まり、バッグの中を探る。
指先に鍵の感触を確かめてから、それを取り出し差し込んだ。
……あれ?
遼、帰ってきてる。
玄関と廊下の明かりがついたままになっていた。
静かに靴を脱ぎ、リビングの扉を開ける。
気配に気づかないまま、ダイニングのノートパソコンに向かう夫。
「ただいま。遅くなってごめんね」
「……ん? ああ、おかえり」
一瞬だけ視線を上げ、すぐに画面へ戻った。
宮坂遼一、三十六歳。
同じ大学の医学部出身。かつて研修医時代、私が循環器を選ぶ前に指導を受けた先輩だ。
「今日は早いんだね」
「家でやる仕事があった」
いつものように短い返事。まるで放り投げるような響きだった。
「夕飯は? 何か作ろうか」
「いらない。食べてきた」
「お風呂は?」
「後でいい」
会話はそこでぷつんと途切れた。
彼の視線は一度もこちらを向かない。一度も……
「……そう」
それ以上の会話を諦め、息をついて立ち上がる。
キッチンへ向かうその背中に、夫の声が落ちた。
「亜紀に引き継ぎたい患者の資料、医局に置いてある。明日見てくれ」
コメント
1件
読ませていただきました。お母さまの「あの家で見守ってくれとるから」という台詞、方言がほんわかしていて印象的でした。優しいけど頑なな、あの距離感がリアルで、亜紀さんの胸の奥が熱くなる気持ちがじんわり伝わってきました。家に帰ってからの、夫との温度差も切ないですね…。医局の資料の一言で終わる会話に、すれ違いが詰まっているようでした。次が気になります。