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「えっ。なに……?」
私は足を止めて再びテーブルへと引き返す。
「オペ後の経過も良いから内科転科したい患者がいるんだ。その患者を亜紀に引き継ぎたい。資料を研修医の……名前なんだっけ? 亜紀の後ろを付いて回ってる……」
「沢井くん?」
「そう、その研修医に簡単に病状説明しておいたから。七時頃、病棟にも医局にもおまえいなかったし」
夫はパソコンを打つ手を止め、私に視線を向けた。
「ああ、その時間はもう栄にいたから」
「栄……? 何で栄なんかに」
「何でって……。お母さんに会うって言ったでしょ? 栄で食事するから遅くなるって」
私は彼を見つめ眉を寄せる。
「……ああ、そうだったな。今、思い出した」
夫は軽く鼻で笑い、再び視線をパソコンに戻す。
「今思い出したって……」
眉を寄せて唇を引き結んだ。
「お義母さん、元気だったか」
まるで社交辞令を口にするような、感情を欠いた口調で問う。
「……うん、元気だった。体の調子もいいみたい。私が主治医になるから近くに住まないかって誘ったら、断られちゃった」
私は薄い笑いを浮かべ夫の横顔を見つめる。
静まりかえった部屋に、キーボードを叩く音だけが響いている。
「田舎からこっちに来ても住み辛いだけだろ。体調がいいなら尚更。不整脈でも発作がなく、悪性じゃなきゃ心配いらない」
「それは、分かってるけど……」
夫は私の言葉を遮り言い放つ。
「それに、親族を診るのは勧めない。患者も親族だからこそ気兼ねすることだってある」
「……そうだね。外科医らしいご意見をありがとう」
皮肉めいた言葉とともに、夫に背を向けた。
「亜紀、今週末は当直だろ?」
キッチンで冷蔵庫を開ける私に再び声を掛けた。
「違うよ。当直は来週」
アイスコーヒーのペットボトルをカウンターに置いた私は、食器棚からグラスを取り出し、リビングを覗き込んだ。
「そうだっけ?」
「そうだよ。あ、遼も今週末は家にいるんでしょ? 土曜日の夜は麗香に誘われてるけど、日曜日はどこかに出掛けようよ。ホテルのランチバイキングとかさ」
私は氷の入った二つのグラスにコーヒーを注ぎ、声を弾ませた。
「俺も土曜の昼間から出掛けるから。戻るのは日曜の夕方になる」
「え……どこに行くの?」
「東京に出張。台場の日航ホテルに泊まる」
「泊まりで出張? そんなこと聞いてなかったけど」
「だから今言ったろ」
「……」
「亜紀も当直で留守だと思ってた。せっかくだから、相川と遅くまで飲んで来たらどうだ」
私の手からグラスを受けとり、口の端を引き上げる。
「久しぶりに一緒の休みだと思ったのに……」
「仕事だから仕方ない。それに、今さら改めてデートもないだろ」
目を伏せる私を気にも留めず、夫は氷の音を立ててコーヒーを口にした。
改めなきゃいけないくらいに、二人の時間がないのに……。
心に沸き起こる虚しさと、疎外感。グラスの水滴を見つめたまま、口を開く。
「……その仕事が終わったら、一緒にお風呂に入ろうよ。終わるまで待ってるから」
半分ほど残ったコーヒーを一気に飲み干し、夫の背中に視線を向けた。
「はぁ……? なに言ってんだよ」
夫は振り返えるなり、怪訝そうに眉を寄せる。
「いいでしょ? たまには。昔はよく入ってたじゃない」
「……いつの話だよ。俺はいい。まだやることあるから。先に風呂入って寝ていいぞ」
夫は呆れたように笑い、パソコンへ視線を戻した。
「……分かった」
軽くいなされた私は笑みを消し、消え入りそうな返事をした。
氷だけ残されたグラスを流し台に置き、逃げ出すようにリビングを後にした。
湯に体を沈め、浴槽にもたれながら浴室の天井を見上げる。
浴槽から立ち昇る湯気が、静かに天井の換気扇に吸い込まれて行く。
「はぁ……」
やりきれない気持ちが深いため息となって落ちた。
「結婚って……月日が流れるにつれて寂しくなるものなのかな……」
音を立て回る換気扇を見つめ、呟いた。
結婚をしてしまえば、何時までも恋人のような新鮮な気持ちではいられない。
そんなの分かってる。
分かってるけど……。
夫婦はこれが普通なの?
私たちには子供がいないから、だから冷めてしまうの?
……違う。
子供がいる夫婦の方が、“男”と“女”から“父親”と“母親”に変わってしまうと、麗香は言っていた。
それなら、どうして私達はこんなふうに……。
瞼を閉じ、唇を噛む。
――夫の体から香る、知らない女の匂い。
気づかないわけではない。
浮気……。
だけど、証拠なんてない。
職業柄、病院に泊まることも、付き合いで朝方の帰宅も珍しくない。
同じ職場だからと言って……いや、同じ職場だからこそ、余計な詮索はしたくない。
一般の企業とは違う。特殊な組織の、特殊な人間模様。
不確かな“女の勘”だけではどうにも出来ない。
朝も昼も夜もない、医療関係者同士の結婚。
始めから分かっていたことだと、諦めるしかない。
……自分に言い聞かせるしかない。
「私、怖がってるだけなのかな……」
膝を立て、手のひらで掬った湯を見つめる。
真実を知るのが怖いの?
何かを失ってしまうのが怖いの?
夫……?
今の生活……?
それとも…
「自分の中のプライド……」
両手で掬った小さな水面が、指の隙間から少しずつ漏れ落ちていく。
気づかないのと、
気づいていても、敢えて口にしないのとは違う。
誰より傍にいるはずなのに、気づいてもらえない。
以前は気づいてくれたのに。
見ていてくれたのに。
今のあなたは私を見てくれない。
女としてこんなに虚しいことはないんだよ……遼。
私だって枯れたくはない。
いつまでも女でいたい。
でも――
花の咲かせ方が分からない。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき……か」
昔見た、日本映画史上最高の恋愛映画と評価されている日本の古い映画、『浮雲』の最後の言葉が突然頭を過る。
「寂しいのは私の方だね……お母さん」
膝を抱え、湯気の中に呟きを落とした。
コメント
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もう……胸がぎゅっとなりました。 亜紀さんが「一緒にお風呂に入ろう」って、あんなにさりげなく、でも必死にすがるような誘い方をするところ、読んでいて切なくなりました。夫・遼の「今さら改めてデートもないだろ」という言葉が本当に冷たくて、距離感がひしひしと伝わってきます。 それでも「怖がってるだけ」と自分を納得させようとする亜紀さんの繊細な心の動きが、とてもリアルで引き込まれました。湯気の中で呟く「花の咲かせ方が分からない」という一文が、タイトルの『枯れた華』に重なって、余韻が残ります。