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第5話「山かけっこ、そして迷子」
「よーい……どん!」
ユキコがそう叫んだとたん、風が一斉に走り出したように見えた。
ナギは、つられて足を前に出す。
サンダルの底が土をはじき、ミント色のTシャツが風を受けてふくらんだ。
ここは、山のふもとの広場だった。
誰が作ったのかわからない、石でできたコースが地面に描かれている。
走っても、まっすぐ行っても、どこか同じ場所に戻ってきそうな気がした。
ナギの後ろを、ユキコがついてくる。
彼女はまるで滑るように地面を進んでいた。
クリーム色のワンピースは、汗のあともなく、風の抵抗も受けていなかった。
「ユキコ、ほんとに走ってる?」
「うん、走ってるよー。たぶんね」
ユキコは笑いながら、ナギの横をすうっと通り抜けた。
ナギはちょっとムキになって、足に力を入れる。
「わたしはちゃんと走ってるんだぞ」と言いたくて。
でも、どれだけ走っても、道が終わらなかった。
木が生い茂る坂を登っても、つづら折りの道を曲がっても、
さっき見たはずの倒れかけた鳥居が、また現れる。
そして──ふいに、音が消えた。
「……ユキコ?」
立ち止まって、後ろを振り向く。
誰もいない。
「ユキコ?」
もう一度、声を出す。
なのに、返事がない。音もない。鳥の声すら止んでいた。
ナギは、不安を消すようにもう一歩、道を戻ろうとした。
でも足は、ぬかるみに沈んだように重かった。
空は、どんよりと曇っている。けれど雨は降らない。風もない。
だけど、どこかでセミが鳴いていた。
あの、同じ音ばかりが繰り返される、録音されたような鳴き声。
「……夢、なのかな」
小さくつぶやいたときだった。
どこかで、水がぽたぽたと落ちる音がした。
ナギが見上げると、木の枝の先にユキコがいた。
木に登ったわけではなく、ただそこに“浮かんで”いた。
「……ナギちゃん、見つけた」
ユキコの声は、ちょっとだけ震えていた。
いつもより、ほんのすこし、感情を持っているように聞こえた。
ナギは声を返せなかった。
ただ、手を伸ばした。
ユキコのワンピースの裾が、まるで霧のように指のすき間をすり抜けた。
「ねえ、ナギちゃん。わたし……さっき、自分の名前を忘れてた気がする」
ナギはゆっくりと首を横に振る。
何かを否定したかった。でも、うまくできなかった。
ふたりのあいだにあったのは、沈黙と、ひとすじの、風のようなものだった。