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湊音は朝起きて浴室に行くと、父親の広見がすでに起きていた。
彼も60歳近くで湊音と同じく高校教師をしており、土曜日のためか休みでゆっくり起きていたようだ。
「おう、お前、昨日は日を跨いで帰ってきたな」
「おはよう。少し遅くなっただけだよ」
「女か?」
「!」
「最近遅いぞ。母さんも心配してるから、早く帰りなさい」
「いつまでも子供扱いするなよ」
広見は一人息子の湊音が離婚して出戻りしてきたことをあまりよく思っていない。
湊音は父親と入れ違いにシャワーを浴び、体を拭いて鏡を見る。
自分の体の締まりのなさ、猫背、洒落っ気もない髪の毛を見て、昨晩の李仁のことを思い出す。同じ年なのにスタイルも顔立ちも全然違う。
『本当にあの人と僕は同じ歳なのか?』
湊音は鏡の中の自分と睨めっこしていた。
適当に選んだ服を着て台所に行くと、母親の志津子がスーツを着て朝食を並べていた。
「早く食べなさい!食べ終わったら食洗機に入れてね」
「わかってる」
湊音はパンをかじりながら、母親の志津子から話を振られた。
「ミナくん、彼女はどうなの?」
志津子の質問に湊音はパンをつまらせた。
『母さんもかよ』
「あんたは上げ膳据え膳、感謝が足りないから奥さんに逃げられたのよ。広見さんも、ね!」
「うわー、俺まで飛び火か」
「広見さん! ミナくんはまだ若いけど、遊んでる場合じゃないって言ってちょうだい。ちゃんと今度は孫を会わせてくれるような良いお嫁さんを連れてきてよ」
トゲのある志津子の言葉に湊音は苦い顔をした。嫁姑の折り合いも悪かったため、それも離婚の一因ではあった。
しかし一番大きな原因は湊音自身にあった。
「もう行く。夜ご飯も適当に食べてくるから」
「ミナくん!」
『母さん、ミナくんって言うなよ』
湊音は機嫌が悪くなり食事を中断し、そのまま家を出ることにした。
集合場所は駅近のモール内にある本屋。
お昼前に集合とのことだった。
土曜日ともあって、子連れの家族が賑やかに買い物をしている。
もし結婚生活を続けていたら、こんな風に買い物をしていたのだろうかと湊音は思うが、すぐにその思いを振り払うように、週刊誌に目を通す。
しかし、泣きじゃくる子供や騒がしい声が気になって仕方がない。
『なんでこんなに気になるんだろう。もし親になってたら、こんなに騒ぐ子供の相手してなきゃいけないのか?』
ふと絵本コーナーに目をやった。いろんな絵本が並べられている。
「いらっしゃいませ、絵本をお探しですか?」
「いえ……」
振り返ると、湊音は驚いた。
そこにいたのは昨晩バーテンダーをしていた李仁だった。
本屋の店員としてエプロンを着て、湊音の前に立っていた。
30分後。
「おまたせー。ごめんね、仕事押しちゃってさ」
「いえ……まさかあんな声の掛け方……」
「つい声かけたくなってさ」
湊音は本屋の横にあるカフェで待っていた。着替えた李仁の私服はおしゃれで、ピアスも前より少し増えていた。
『バーテンダーだけじゃ食っていけないのかな?』
「僕も早くきすぎちゃって……ごめん」
「いいよ。まずは下でご飯食べて、次は美容院行こうか。一時半に予約してあるんだ」
背が高く、派手な格好をしている李仁。
(一緒に歩いてて周りからどう思われるか……)
まだ湊音は緊張していた。
モールの地下に降りると、空気がふっとひんやりする。
賑やかなフロアの喧騒を離れ、タイル張りの通路を抜けると、昔ながらの喫茶店があった。
木製の看板には、少し色あせた金文字で「喫茶グリーン」と書かれている。
外からでも香ばしいコーヒーの香りが漂う。昔入ったことはあるが今は全面禁煙席。時代は変わったものだ。
中に入ると、革張りのソファと年季の入った木のテーブル。店内は薄暗く、古い映画のように落ち着いた雰囲気だ。
小さくジャズが流れていて、まばらな客の話し声に混じって食器の音が控えめに響いている。
湊音は「オムライススパ」を、李仁は「カレーライス」を注文した。
「今日は、美容院に行って、服屋さん、スーツ屋さん……」
李仁がふと顔を上げて言った。
「今でも十分かっこいいけど、さらにかっこよくなるよ」
湊音は返す言葉を探して口を開きかけたが、結局、何も出てこなかった。
李仁はスマホを手に取り、静かに画面を眺めていた。
その横顔はどこか中性的で、美しい。
やがて、注文した料理が運ばれてきた。
湊音の前には、懐かしいケチャップの香りが漂うオムライススパゲティ。
李仁のカレーライスは、丸い皿に美しく盛りつけられている。
湊音はフォークを取り、スパゲティを一口。トマトの甘さとバターの風味が広がる。
ふと視線を上げると、李仁がカレーをゆっくりと、驚くほど上品に食べていた。
姿勢は真っすぐで、スプーンの持ち方も洗練されている。まるで、映画のワンシーンのようだった。
「……どうしたの?」
不意に目が合い、李仁にそう言われて、湊音は慌てて首を横に振る。
「なんでもない」と小さく笑うと、李仁も口元に穏やかな笑みを浮かべた。
唇についたカレーを、ナプキンでそっと拭うその仕草さえ、美しい。
食後、ふたりはコーヒーを頼んだ。
カップから立ちのぼる湯気と、ほんのりとした苦味の香りに、湊音の肩の力も少し抜けていく。
「……意外かもしれないけど、本屋のほうが、本業なんだ」
李仁がぽつりとそう言ったとき、湊音は驚いて顔を上げた。
特別な話題はなかった。
けれど、テーブルを挟んで流れた静かな時間が、どこか心地よかった。