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#ワンナイトラブ
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病院から戻った後のマンションは
外界の喧騒を一切遮断したかのように、いつもよりずっと静かだった。
暗い車内からここまで、私たちはほとんど言葉を交わしていない。
祖母の穏やかな笑顔を思い出し、胸が温かくなる一方で
京介が見せた優しさの残熱が、私の心に消えない爪痕を残していた。
(契約以上のことを、していただいた。……私は、この人に何を返せるんだろう)
お風呂から上がり、湿った髪を乾かした私は、逃げるように自分の寝室へ向かおうとした。
けれど、静寂を切り裂くように、背後から京介の低い声が響いた。
「志乃。……どこへ行くつもりだ」
振り返ると、彼はシャツのボタンを胸元まで大胆に寛げ、自室のドアにもたれかかっていた。
廊下の間接照明が、彼の彫りの深い横顔に濃い陰影を落としている。
「……お休みのご挨拶を、と思いまして。今日は本当に、ありがとうございました。お陰で祖母も安心したと思います」
「挨拶だけで済むと思っているのか? 今夜は契約の『四項目め』を履行してもらうぞ」
心臓がドクン、と大きく跳ねた。
彼がゆっくりと歩み寄ってくる。
広い廊下のはずなのに、酸素が薄くなり、壁が迫ってくるような錯覚に陥る。
「…それは、その、お恥ずかしながら私はそういう経験も少なく、社長──いえ、京介様を満足させられる自信がありません」
「自信などいらないと言っただろう。……俺がすべて教える。これは、完璧な夫婦になるための不可欠な『練習』だ」
「えっ」
京介の強靭な腕が私の腰に回され、抗う間もなく彼の寝室へと引き寄せられた。
厚い絨毯に足を取られながら、気がつけば私は大きなベッドの上に横たえられていた。
いつの間にか視界から眼鏡が外され、私の武器も盾も、すべて奪い去られる。
ぼやけた世界の中で、京介の瞳だけが異常なほど鮮明に、私を射抜いていた。
その瞳は、冷徹な経営者のものでも、優しい孫婿のものでもない。
一人の女を欲する、雄の熱を帯びていた。
「志乃。……仕事の時みたいに、感情を殺して我慢するな。ここでは、お前の本当の声を聞かせろ」
熱い唇が首筋に落とされ、全身が弾かれたように震える。
彼の手が私のブラウスのボタンに掛かった。
一箇所、また一箇所と外されるたび、これまでひた隠しにしてきた肌が夜の空気に触れ、粟立つ。
「……あ、っ……きょう、すけ……」
「いい声だ」
ただの義務、これは契約の一部。
そう自分に言い聞かせようとするのに、彼が触れる場所すべてが、導火線に火をつけられたように熱い。
京介の指先が、私の左手薬指で輝く指輪に触れ、そのまま指を深く絡め取った。
激しく刻まれる鼓動の中で、私は認めたくない事実に気づいてしまう。
流されているのではない。私は、この冷徹で傲慢な「夫」に
心のどこかで触れられることを──
暴かれることを、強く望んでいたのだと。
夜の帳が深く下りる中
私たちは初めて、仕事という強固な殻を脱ぎ捨てて、ひとつの熱へと混じり合った。