テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ポンヌ リク受付中
3,216
#からぴち
#恋愛
#シングルマザー
水羽凛
497
小気味良い音を立てながら食材を刻んでいく。その横で控えめなタイマー音が鳴り響き、もう一時間半は煮込んだであろうホーロー鍋の火を消した。
ブラウンを基調としたアイランドキッチンに揃えられたキッチンツールは奢侈なものばかりで、キッチンに立つたびに、まるでどこかのキッチンスタジオで料理をしている気分になる。
ひととおりの調理を終え、あとは盛り付けのみというところで、タイミングよく玄関のドアが開く音がする。程なくしてリビングにジャケット姿の男性が現れ、自然と顔を綻ばせた。
「ただいま」
「おかえりなさい。もうすぐご飯できるけど、先にお風呂にする?」
「いや、玄関までいい匂いがしてたからお腹が空いてきた。先にご飯もらえるかな」
「うん、わかった。もう少し待っててね」
あのお見合いからあれよあれよという間に話が進み、神花リゾート所有のホテルで結婚式を挙げた私たちは、伊織さんが勤める病院からほど近い場所に新居を構えた。
引っ越しを終えてから、もうすぐ一カ月。生まれてこの方実家暮らししかしたことがない私にとって、伊織さんとの生活は不安のほうが大きかったけれど、今のところ変に気を使い過ぎることなく生活することができている。それは、気遣い上手な伊織さんのおかげでもあるかもしれないけれど。
着替えのため寝室に向かった伊織さんの背中を見送ったあとで、もう一度キッチンに立ち直す。見栄えにもこだわりながら盛り付けた料理を運び終わると、着替えを終えた伊織さんが現れた。
「今日も美味しそうだな」
「仕事が休みだったから、つい張り切っちゃって」
メインに用意したのは、数日前から漬け込んでいた塩豚とレンズ豆の煮込み料理。手間こそはかかるものの、ホロホロの豚肉と凝縮された野菜の旨味がたまらない、得意料理のひとつだった。
結婚してからも仕事は続けさせてもらっているため、毎日手の込んだ料理は作れないけれど、こうして自分が休みの日は気合を入れてしまう。普段から忙しい伊織さんが早く帰宅できる日であれば尚更だ。
はじめのうちは伊織さんも「無理をしないで」と言ってくれていたが、SNSの投稿用に動画を撮ることもあれば、もともと料理自体が好きな私にとっては趣味の時間でもある。それを理解してもらってからは、彼も素直に喜んでくれるようになった。
「うん、美味しい。俺この味好きだな」
「よかった、じゃあまた作るね」
「ああ、ありがとう」
口元を緩く結び上げ、彼がフォークを口に運ぶ。
その動作があまりに美しく、思わず手を止めて見入ってしまった。
「……どうかした?」
「あ、ううん。何でもない。今日は何か変わったことはあった?」
「いつも通り。院長に緋真が作った弁当羨ましがられたくらいかな」
「院長先生に?」
「たまたま昼休憩のときにお会いして」
伊織さんが勤める東梨医科大学病院の院長先生は、元は形成外科部長を務めていた方で、伊織さんとは出身大学も同じなど共通点が多いらしい。それもあって医学生時代から特別気にかけてもらっており、たまにこうして話に出てくるのだ。
私たちの結婚式にも出席していただいたが、とても物腰が柔らかい印象を受けた。
「院長先生に褒めていただけるなんて、光栄だな」
「誰だって褒めたくもなるさ。味はもちろんだけど、見た目も売り物以上に綺麗なんだから」
「あ、ありがとう……」
伊織さんは結婚する前から、事あるごとに私の自己肯定感を高めてくれる。
彼としては素で言っているようだが、面と向かって褒められる度にドギマギしていた。
それは褒められること自体に慣れていないのもあるけれど、一番の理由は――
「毎日こんなに美味しい料理が食べられて、俺は幸せ者だな。ありがとう、緋真」
そう言って穏やかな笑みを浮かべる彼に、胸がきゅうっと締め付けられた。その笑顔だけで胸がいっぱいになり、食欲もどこかへ行ってしまうほど。
――言うまでもなく、お見合いの日から私は伊織さんに心を奪われている。はじめはおそらく一目惚れ。その後は、彼を知れば知るほど、日に日に気持ちが大きくなっていった。
誰に対しても分け隔てなく向き合う誠実さと、人一倍気配りができる優しさ。そして、仕事への真摯な姿勢。彼は人としてもパートナーとしても尊敬に値する人物だ。
それ故に、伊織さんのような男性と結婚できたことを、この上なく幸せに感じていた。
「ごちそうさま。今日も美味しかった」
「お粗末様でした。それじゃあ片づけちゃうね」
「俺がやるよ。洗い物くらいはさせて。と言っても洗うのは食洗器だけど」
「ふふ、大丈夫だよ。私今日は休みだったし、食洗器に入れちゃうだけだから」
伊織さんの分の食器をまとめて片づけると、彼はどこか申し訳なさそうにお礼を言う。
「すごく助かるけど、そこまで完璧にやらなくていいよ。緋真には負担をかけたくないんだ」
「うん、ありがとう。でも無理はしてないよ?」
一緒に暮らし始めて、家事のほとんどは私に任せてもらっている。
伊織さんは事あるごとに手伝ってくれるが、収入や労働時間を比較しても、家事を半々にするというのは気が引けるのだ。
幸い私は料理が得意だし家事もそこそこできるので、今のところ何も苦には感じていない。逆に彼の役に立てているのなら本望だった。
「……それなら、お願いしようかな。それと、前も話したけど明日は飲み会があるから夕飯はいらないよ。遅くなるかもしれないし先に寝てていいから」
「わかった」
「じゃあ、俺は先にお風呂いただこうかな」
伊織さんはそう言ってリビングをあとにする。その背中を横目に、片づけを開始した。
「……よし、頑張ろう」
私たちの新婚生活は、こんな感じで上手く行っている。お見合い結婚なんて、と思った自分が愚かに思うほどだ。むろんそれは、相手が伊織さんさんだからという前提があるのだけれど。
とにもかくにも、この一カ月間は大きな問題もなく穏やかに過ごせていた。
ただひとつ、ある悩みだけを除いては――
コメント
1件
やっと読めた……第4話のこの空気感、本当に好きです。塩豚とレンズ豆の煮込みの描写から漂う温かさとか、伊織さんの「毎日こんなに美味しい料理が食べられて幸せ者だな」に緋真さんが胸きゅんしてるの、こっちまでほっこりしちゃいました🥀 お互いを思いやる会話が自然で、新婚の甘やかさがにじみ出てる…けど、最後の「ある悩みだけを除いては――」で不穏な空気も残すバランスが絶妙。何が隠れてるのか気になって仕方ないです。続き、静かに待ってます🌙