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「奈緒」
すっかり酔った春さんが、ふと私の名前を呼んだ。
「なに?」
キッチンに置かれた小型のダイニングテーブル。そこに、向かい合わせで私たちは座っていた。
「奈緒」
テーブルに頭を伏せたまま、また彼は私を呼んだ。
「なあに?春さん」
今度は私も、彼の名前を呼んだ。無造作に置かれた2つの空き缶と食べ残したカップ麺がテーブルに並んでいる。
「…っ…奈緒…なお…」
私を呼ぶ声が震えた。細い肩が揺れる。私は必死に春さんに声をかける。
「春さん泣かないで」
「会いたい」
「私はそばにいるよ」
「会いたい…会いたいよ…っ…」
しわの寄ったスーツのジャケット。くしゃくしゃの髪。きっと全部がつんとしたアルコールの匂いに包まれている。
「春さん、泣かないで。私はあなたの隣にいるから」
必死に声をかける。伏せられた彼の顔が、その顔を埋めるジャケットの袖が、止まらない彼の涙でいっぱいなのが分かる。
「春さん」
たまらなくなって抱きしめた。
「…っ……っ…」
耳元に残る溺れるような呼吸。
空気をつかむように、私の腕は春さんの体を通り抜ける。
「守ってやれなくてごめん」
「…そんなこと、言わないで」
「幸せに出来なくてごめん」
「私は十分幸せだよ。春さん。そんなに自分のことを責めないでよ」
体に触れられないように、彼にはもう、私の声が聞こえない。
「…会いたい会いたいよ」
私がビールはあまり好きじゃないって言ったとき、僕もってあなたは笑った。
「…っ…奈緒…」
私が部屋とか身だしなみはちゃんとこだわりたいって言ったとき、僕もって笑うあなたからは優しい香りがした。
「…なんで死んじゃったんだよ」
知らなかった。気づかなかった。
私を愛してくれるために、春さんはあといくつの知らない彼を自身の中に潜めているのだろうか。
「…奈緒」
彼はゆっくりと顔を上げた。
「なあに、春さん」
私は彼の目線に合わせて、また向かい側の席へ戻った。
「…」
今度は何も言わずにそのまま虚ろな目を宙へ放った。
真っ赤な頬も、うっすらとのびた無精髭も、涙や鼻水でぐしゃぐしゃにぬれて、天井から降りかかる光に照らされて反射した。
私は思わず彼の背中を抱きしめた。
また腕が空をきる。
それでも私は抱きしめた。
「春さん」
「…ごめん…」
「春さん。…ねえ、春さん」
私は彼の頬を両手で包んだ。
「生きて」
どれだけあなたを見つめても、その瞳に私がいないことが分かる。
「生きてれば、好きなものが食べれて、飲めて、好きなことができて、きっとまた好きな人もできるよ。きっと幸せなことがあるから。それにあなたには、まだ…」
こぼれたジュースが床に広がっていくように、溢れる寂しさや虚しさや悲しさが私の中をじわじわと覆っていく。
「私のこと、はやく忘れてね」
そのとき彼の口が小さく動き、私の言葉に重なるようにぽつりとつぶやいた。
「…ひとりにしないでくれ」