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■第9話「壊れた約束の箱」
約束は、もう守れない。
守れなかったことさえ、もう伝えられない。
その日、エミは郵便受けの前で立ち尽くしていた。
開かずのロッカーに入れられた手紙を、ようやく取り出す決心をした矢先──景色が静かに切り替わった。
視界いっぱいに広がるのは、巨大な箱庭だった。
けれどそれは“箱”の内側だったのか、あるいは“記憶の外側”だったのか。
空には雲ではなく、書き損じた便箋の断片が舞っていた。
箱庭の中には誰もいない。なのに、笑い声だけが断片的に響いていた。
エミは、二十代前半の女性。
ストレートの黒髪を肩の下まで下ろし、ベージュのスプリングコートの襟を立てている。
深緑のロングスカートと白いニット、革のショルダーバッグをかけている姿は整っているが、どこか“終わったもの”を抱えた空気を纏っていた。
唇は動かさず、目元だけで感情を伝える癖がある。
「あなたは、ひとつの“約束”を失いましたね」
ブックレイが、いつの間にか立っていた。
今回は、封筒のような衣をまとい、胸元には無数の未開封スタンプが浮いている。
顔には何も映っていないが、声だけがやけに近く感じられた。
「あなたに足りないのは、“忘れられない約束”です」
ブックレイは、手のひらに小さな箱を乗せていた。
その箱には鍵穴があり、紙でできた鍵が刺さっていた。
「この物語では、住人たちは“約束を決して忘れられない”種族です。たとえ守られなくても、果たされなくても、それは彼らの心に残り続け、やがて形となって世界をゆがめていきます」
「あなたは、その中で“壊れた約束の箱”を開ける存在となります。ひとつ、問いましょう。
あなたが忘れたいと思っていたのは、“その人”ですか? それとも、“あの時の自分”ですか?」
エミは、答えなかった。
けれど、箱に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、箱庭がかすかに振動した。
空から、誰かの声に似た音が、風もないのにふと降ってきた。
──忘れられないのは、どちらのせいだろう。
それを知るために、彼女は物語の中へ沈んでいった。