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「これ、蒼が買ってきたんだよ」
真が紅茶と一緒に、イチゴののった皿をテーブルに置いた。
「え……」
「一時間くらい前まで、ここで伯父さんと話し込んでた」
蒼が、さっきまでここに……。
「お前が来るって分かってたら、引き留めておいたんだけどな」
私はイチゴのヘタを取って、口に入れた。
「美味し……」
イチゴの甘さが、胸を締め付ける。
蒼と別れて二週間、彼を思い出さない夜はなかった。
「明日も来るぞ?」
「そう……」
私はもう一つ、イチゴを頬張って言った。「蒼はどう? お父さん」
「優秀だよ。一から十以上を学べるし、勘もいい。真面目だが真面目過ぎないから、金融の道でも十分やっていけるだろう」
父は他人を非難することをしない。けれど、絶賛することもない。その父が蒼をここまで褒めるのは、娘の恋人だからだろうか?
「和泉社長がいなくても、プロジェクトは進みそう?」
「何とかならなくはないだろうな。だが、本人にその気がない」と言って、お父さんはコーヒーを口に含む。
「どういうこと?」
「真はどう思う?」
お父さんに聞かれて、真は持っていたカップを置いた。
「蒼は自分でプロジェクトを進める気はなさそうだ。どうしたら和泉社長が戻るまで現状を維持できるか、を重要視しているんだろうな」
『蒼は和泉社長の戻る場所を守ってあげて』
私は蒼に言った。
蒼に、和泉社長にとって代わる気がないことはわかっていた。
「それで? 現状維持できそうなの?」
「何か思いついたようだが、自信が持てないらしい。じっくり考えて、明日またレクチャーしてほしいと頼まれたよ」
「なら、大丈夫でしょ」
私の言葉に、お父さんが驚いた顔をした。
「なに?」
「いや……。信頼してるんだな、蒼くんを」
信頼……。
言葉にすると、それとは違う気がする。
「どうかな……。そんな立派な物とは違う気がする」
「お前は真面目過ぎるな。もう少し蒼くんを見習った方がいい」
お父さんが私に意見するなんて、初めてかもしれない。
母が亡くなってから何年も離れて暮らしていたから、たまに会ってもお互いの近況を報告し合う程度の会話しかなかった。長く娘を手放していた罪悪感からか、父は私のやることに反対したこともない。
父の口癖は『お前はお前の望むことをすればいい』だ。
「咲、想いを言葉や態度に示すことはお前が思っている以上に大切だよ。言葉にすることで、それは想いから決意に変わる。自分を奮い立たせ、律するためにも、ちゃんと言葉にしなさい」
想いから決意――。
私は、言葉にすることで相手を束縛することになるのではないかと思っていた。
「自分の想いから逃げているようでは、相手を幸せには出来ないよ」
そうかもしれない。
蒼を愛していると言葉にしてしまったら、もう一人には戻れないとわかっているから、伝えられない。
蒼に愛していると言われて、束縛に感じたことなど一度もないのに……。
「伯父さんにも経験があるんですか?」
真がお父さんに聞いた。
ハッとした。
そうか。
「仕事人間の私には、そんな色っぽい経験はないよ」と、お父さんは笑った。
「湯山さんはずっと一人だよ?」
明らかに、お父さんの表情に緊張が走った。
やっぱり……。
「言葉に出来なかった想いは、いつか忘れられるもの?」
「どうかな……。想いの種類にもよるだろうね」
そう言った父は、父親の顔ではなく『男』の顔をしていた。
*****
翌日、私はT&N観光ビルの八階にいた。
社長室と副社長室、秘書室、会議室が占めるこのフロアは、休日とあって静かだった。
私は副社長室のドアの前で深呼吸をして、ノックした。
「どうぞ」
ドアの向こうからの声に、私の鼓動が乱れた。
落ち着け……。
私は「失礼します」とドアを開けた。
ドアを閉めて顔を上げる。
正面のデスクに座っている副社長が、眼鏡を外した。
「お忙しいところ、時間を頂きまして――」
「ああ、堅い挨拶はいいよ」
私の言葉を遮って、声の主が言った。
「久し振りだね、咲ちゃん」
「お久し振りです、充さん」
私は言った。
「昔みたいに『みっちゃん』って呼んでくれないんだ」
「正直、覚えてませんから」と、私はわざとそっけなく言った。
「残念」
「心にもないことを……」
充さんはデスクを立ち上がって、応接用のソファに腰を下ろした。私にも座るように言う。
「まさか、きみが乗り込んでくるとは思わなかったよ」
「待っていた……の間違いじゃないですか?」
「そうだね。待っていたよ」と、充さんが微笑んだ。
声が……蒼に似ている。
蒼に『待っていたよ』と言われたようで、心が揺らぐ。
動揺するな。
「単刀直入にお話しします」
私は充さんの目を直視した。
「私を雇って下さい。出来るだけあなたに近いポストで」
「蒼から俺に乗り換え?」と言って、充さんも私に視線を返した。
「それとも、蒼のために寝首を搔きに?」
「どうでしょう?」
私は気圧されまいと、わざと不遜な表情と口調で、笑みを浮かべた。
「目的はなんだ」
充さんの低い声が、副社長室に響く。
「あなたと同じです」
「同じ?」
「ええ……。清水による一連の事件の黒幕を突き止める」
充さんの威圧的な視線が突き刺さる。
「川原に逃げられて、手詰まりでしょう?」
「何のことだかな」
痛いところを突かれて、充さんが目を伏せた。
「あなたに和泉さんのことをリークしたのが川原であることはわかっています。取締役会の直後に川原があなたから逃げ出したことも。あなたがまだ川原の本当の黒幕を突き止められていないことも……」
「川原を使っていたのは、兄貴だろう?」
「本気でそう思っているのなら、どうして取締役会で即刻社長解任に持ち込まなかったんですか? 蒼の時間稼ぎに付き合うメリットなんてないでしょう?」
充さんの背後の大きな窓の向こうを、鳥が数羽連なって横切って行った。
しばらく横目で私を見て、充さんはため息をついた。
「黒幕を探りにここに乗り込んできたということは、やはり俺に近い人間か」
「残念ですが」
私は心にもないことを言った。
「蒼は知っているのか?」
「いえ」
「そうか……」
充さんは目を閉じて、首を伸ばした。
「きみの筋書きは?」
「私があなたと手を組んだと知れば、川原が焦って何かしらの行動を起こすでしょう。そして、私とあなたの関係を邪推し妨害する人物が、黒幕です」
私はかなりざっくりと説明した。
「なるほど……」と、充さんは呟いた。
「では、明日からきみを副社長第二秘書として雇おう。第一秘書の男が優秀過ぎて長らく第二秘書は設けていなかったが、家庭の事情からまとまった休暇が欲しいと申し出があった。きみへの引継ぎが終わり次第、彼には三十七日間の有給休暇を認める。そして、その三十七日間、休日を含めて二か月弱となるが、それがきみのタイムリミットだ」
「十分です」
「言っておくが、事情はどうであれ、俺は無能な人間をそばに置く気はない。きみが秘書として使えなければ、この計画はなしだ」
「承知しました。偶然にも秘書検定一級を持っていますし、ご心配には及びません」
偶然、ではないことはわかっている。私が秘書検定を持っていることを知っていて、秘書のポストを用意したのだろう。
望むところだ。
「ひとつ確認ですが、私を秘書としてそばに置くことで不本意な噂がたつのは免れないでしょう。副社長のプライベートに干渉するつもりはありませんが、対策が必要でしたら――」
「必要ない」と、充副社長はまたも私の言葉を遮った。
「むしろ、俺ときみの関係が噂になればなるほど、敵は動揺するだろう。きみの都合のいいようにしてくれていい。俺のプライベートはそんな噂でどうこうなるほど安くない」
「承知しました」
「きみのほうこそ、いいのか? 蒼が乗り込んできたらどうする?」
充副社長が、いやらしい目つきでニヤリと笑った。
「ご心配には及びません。私のプライベートもそんな噂でどうこうなるほど安くありませんから」
私は満面の作り笑顔で答えた。
「では、早速ですが、副社長のお好みの容姿を教えていただけますか?」
磨かれた窓の向こうに広がる、雲ひとつない真っ青な空を見て、買い物日和だなと思った。
観光ビルを出た私は、充副社長好みの地味なスーツを三着、動きやすいヒールの低いパンプスを二足買い、仮住まい中のウィークリーマンションに帰った。
スーツケースひとつで清水の被害者女性に会いに各地に飛び回っていた時は、忙しさで忘れていたが、三日前に部屋に帰って蒼と会えない寂しさを思い知らされた。
蒼に抱かれた部屋にいると、嫌でも彼の感触を思い出してしまう。
いつでも会える距離は、今の私には耐えがたい誘惑で、私はスーツケースに荷物を詰め直して、部屋を出た。
真は家に来るように言ってくれたけれど、蒼のそばにいる真と一緒にいると、どうしても蒼のことが気になってしまうし、会いたくなってしまうと思った。
私はストッキングを脱ぎ捨てると、ベッドに体を投げ出した。
天井が低い。
昨夜はテレビの音がうるさかったが、今は留守のようで隣の部屋は静かだった。
三年務めた庶務課のみんなには、有休に入る前に簡単な挨拶をしただけだった。私が観光の副社長秘書になれば、噂はすぐに広まるだろう。
充副社長は女性の秘書を嫌い、長年男性秘書が担当していた。それが、突然新人の女性秘書をそばに置くのだから、どんな噂をされるかは考えるまでもない。
私が買ってきたスーツをクローゼットに掛け終えると、テーブルの上のスマホが震えた。
真からだ。
「はい」
『今、大丈夫か?』
「うん」
真の背後は静かだった。
蒼は一緒ではないのだろうか?
『蒼はさっき帰ったよ。伯父さんも用があるって、蒼と一緒に出た』
「そう……」
昨夜、私はお父さんに湯山さんの住所をメールした。お父さんはきっと会いに行く。そんな気がしていたし、そうであってほしかった。まさか、昨日の今日とは思っていなかったが。
「蒼に連絡したのか? 今日のあいつ、気持ち悪いくらい上機嫌だったぞ」
「イチゴのお礼をメッセしただけ……」
〈イチゴ、美味しかった。ありがとう〉
可愛げのない、短い文章しか送れなかった。
『そっか』
気持ち悪いくらい上機嫌な蒼を、見てみたかったな……。
蒼が、あんなメッセ一つで喜んでくれたと思うと、嬉しくなった。
『プロジェクトを維持する糸口も掴めたようだし、蒼は大丈夫だろ』
「良かった」
真から、蒼が行き詰っていると聞いて、本当に心配だった。真が私に黙ってお父さんを呼んだことには驚いたけれど、それで蒼の助けになるならと、お父さんに蒼を助けて欲しいと頼んだ。
『お前の方は?』
「リミットは六週間てとこ」
『蒼もだ。ふた月後の金融庁への認可申請までに和泉社長を復職させなきゃならない』
「わかったわ」
『蒼のことは心配するな。お前は無茶するなよ』
「ん……」
私は気のない返事をして、〈終了〉ボタンを押した。
副社長秘書として観光に潜入すること自体、無茶だ。
すぐに、蒼の耳にも届くだろう。
充さんにはああ言ったけど、私と充さんの下世話な噂を聞いて蒼がどう思うのか、不安がないわけではなかった。
直接、顔を見て事情を説明できない今は、蒼が私の気持ちを信じてくれていると、信じるしかない。
『言葉にすることで、それは想いから決意に変わる』
お父さんの言葉が浮かんだ。
自分は想いを言葉に出来ていないのに、蒼に信じて欲しいなんて、都合が良過ぎる。
私は腕時計を外し、両手でしっかりと握りしめた――。