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第四節 像
最初は、噂だった。
「聞いた? あの人」 「どの人?」 「ほら、例の件の」
名前は、あってもなくても同じだった。 指示語だけで、ワタシは成立していた。
「何も言わなかったんでしょ」 「一番信用できないタイプだよね」 「自分だけは安全地帯にいるつもりの人」
ワタシの知らないわたしが、
会話の中で、手際よく組み立てられていく。
善悪は、すでに決まっていた。 残っているのは、性格づけだけだった。
「計算高い」 「要領いい」 「責任取りたくない人」
違う、と言えるほど、
ワタシはもう現場にいなかった。
ある人は、親切そうに言ったらしい。 「悪い人じゃないんだよ。ただ、ズルいだけ」
ある人は、少し笑って。 「でもさ、ああいう人って必ずいるよね」
“必ずいる”。
個人だったはずのワタシは、
いつのまにか、類型になっていた。
——黙ってやり過ごす人。 ——自分の立場だけ守る人。 ——正義が決まってから意見を言う人。
どれも、証拠はいらなかった。 ワタシが否定しなかった、という一点だけで十分だった。
その像は、完成していた。 修正の余地も、更新の予定もない。
ワタシが何を考えていたかは、
誰の興味にも入らなかった。
家で、その話を聞いたわけじゃない。 直接、耳にしたわけでもない。
でも、分かってしまう。
連絡が来ない理由。 視線が逸らされた理由。 偶然を装った距離。
完成した人物像は、
現実よりも強く、人を動かす。
ワタシは、もう説明する役ですらなかった。 説明は、不要になったのだ。
数週間が経つ。 無音は、少しずつ形を変える。
最初は、異常だった。 次に、不安になった。 そして、気づく。
——慣れている。
通知がないことに、驚かなくなる。 予定が空白でも、落ち着いていられる。 曜日を、間違える。
誰にも誤解されない代わりに、
誰にも参照されない。
それは、思っていたより楽だった。
反論しなくていい。 誤解を解かなくていい。 「どう思う?」と聞かれない。
沈黙は、今度こそ、
本当にワタシのものになった。
外側では、ワタシはもう完成している。 冷静で、狡猾で、責任を回避する人。
内側では、
ただ、音のない日常が続いているだけだ。
どちらが本当かなんて、
もう、どうでもよかった。
朝は来るし、夜も来る。 食べて、眠って、起きる。
それが続くなら、
人生は、続いていると言えるのだろう。
「あぁ、そうなんだ……ふぅん」
声に出す必要はなくなった。 相手がいない言葉は、
頭の中で、溶けるだけだ。
この静けさが、正常になる。 この隔絶が、日常になる。
完成した人物像だけが、
外の世界で、ひとり歩きを続けている。
ワタシ抜きで。