宗親さんの腕の中。
逃げ去っていく康平に必死に手を伸ばして「私、あの人、を追、いかけな、きゃ……いけな、いん、ですっ」と泣きじゃくったら、宗親さんが無言で立ち上がった。
そのまま私に手を伸ばしてその場に立たせると、「少し待ってて」と残して、ちょっと先に転がった私の鞄を手に戻っていらして。
「もし僕があげた指輪を奪られたとかそんなことを気にして言ってるんだとしたら……本気で怒りますよ?」
とゾクリとくるほど抑揚のない静かな声音で言われた。
宗親さんはいつもいつも私の左手薬指に自分が渡した婚約者の証があるかどうかを気にしていた。
この状況下でもそこに気付かれないわけがなかったんだと、私はますます溢れ出す涙を止められなくなる。
「……でもっ、あ、れは……宗、親さ、に頂いた、大、切なも、のでっ。だ、から……私っ……。――きゃっ」
諦めるわけにはいかないのです、と続けたかったのに、無言で距離を詰めていらした宗親さんにいきなり膝裏をすくわれて。
あれよあれよといううちにお姫様抱っこをされてしまった私は、その言葉を最後まで言わせてもらえなかった。
「宗親、さっ、……わ、たしっ」
「もう黙りなさい、春凪。指輪なんかよりキミの手当ての方が大事だってどうして分からないんですか?」
まるで会社にいる時みたいに命令口調でピシャリと言い切られて、私は何も言えなくなってしまう。
宗親さんが物凄く怒っていらっしゃるのが、その雰囲気からひしひしと伝わってきて。
私がしっかりしていなかったから……指輪を奪われて怪我までさせられて……。
きっと宗親さんの逆鱗に触れてしまったんだって思った。
「ごめ、なさ……っ」
康平に言われた、『こんな高そうなモン、失くしたとなったら婚約破棄かもな?』という言葉を思い出した私は、『お願い、見捨てないで』って思いに支配されて、宗親さんの首筋にギュッとしがみつきながらポロポロと涙を落として。
しゃくりあげすぎて声に出来ない分、心の中で懸命に宗親さんに許しを乞うた。
ふと視線を落とした先。
ラベンダー色のワンピースの胸元が、さっき康平にボタンを外されたまま、はしたなく着乱れていて……。
それが私の不始末の名残みたいに思えてちくちくと胸が痛んだ。
〝ボタン、とめないと〟って思うのに、宗親さんの首に回した腕を解くのが。
ううん。彼から手を離してしまうのがすっごく怖くて出来ないの。
きっとそういう優柔不断さが全ての元凶なんだよねって思ったら、胸が締め付けられるように苦しくなった。
***
「いらっしゃいませ。――って、オイ、織田っ、何事だ⁉︎」
宗親さんがドアベルの音を響かせて薄暗い店内に入った時、Misokaに連れて来られたんだって思って。
泣きじゃくってボロボロの顔を明智さんに見られたら、って恥ずかしくなった私は、宗親さんの肩口にしがみつくみたいにぎゅうっと額を押し当てた。
だけど血まみれになった足は隠せなかったみたいで、「ちょっ、柴田さん、怪我してんじゃん!」と慌てる明智さんの声が耳を揺らす。
幸いまだ開店直後で、バーという要素の方が強めなMisokaの店内には、私たち以外のお客さんは来ていなかった。
「裏、借りますよ」
宗親さんは勝手知ったる他人の家さながらにそう告げると、カウンター奥の扉に向かって。
「ああ。別に構わねぇけど……お前事情ぐらい説明……」
言い募ろうとする明智さんに、宗親さんはピシャリと「明智、店の横の路地、防犯カメラぐらい設置しとけよ」と怒気を滲ませる。
***
「ごめ、んなさい……」
バックヤードに入るなり私はギュッと胸元を押さえて、絞り出すように謝罪の言葉を紡いだ。
未だワンピースの前開きボタンはだらしなく開けられたまま。
早く留めたいのに手が震えて上手く出来そうになかったから、私は胸元を息苦しいほどにきつく、締め上げるように押さえ付けた。
「何故春凪が僕に謝るんですか?」
宗親さんはとりあえずといった様子で休憩室に置かれた椅子に私を座らせると、傷口の様子を確認するためだろう。目の前にしゃがみ込んだ。
「やはり綺麗に洗った方が良さそうですね」
ポツンとつぶやくと、宗親さんは休憩室の更に奥にある店外へ続く扉の施錠を開けると、再度私を抱き上げる。
「外に水道があります。そこで傷口を洗い流しましょう」
私は宗親さんにされるがまま。
胸元を押さえる手はそのままに、もう一方の手で彼の首筋にしがみついた。
外は真っ暗だったけれど、不思議と宗親さんと一緒だと怖くなくて。
さっき、この近くの路地であったことを思うとゾクリと身体が震えたけれど、それを察したように宗親さんがずっと私のどこかに触れていて下さるから本当に心強かった。
「少し……沁みますよ?」
宗親さんは私を立ち水栓そばの水栓パンの中に立たせると、ご自分の肩に手を添えるように仰ってから、オープントウのサンダルを脱がせてくださる。
そうして水道の蛇口をひねると、痛くないように、という配慮からかな。
勢いよくジャーッと流れ出た流水を調整して弱めると、「冷たいけど我慢してくださいね」と言って傷口に水を当てた。
水に触れてすぐは確かに冷たいって思ったけれど、夏だしそんなに辛くない。
感覚が麻痺しているお陰かな。
沁みるって言われたけれど、全然痛くなくて。
(血まみれで汚いな)
とか
(鉄臭いな)
とかどうでもいいことばかりが頭の中をグルグルした。
「ごめんね、春凪。砂が落ちないので少しこすりますね」
言われて宗親さんの手が、私の傷口に優しく触れて。
「――っ」
さすがに傷口に触れられた時はほんの少し痛かったけれど、我慢できないほどじゃない。
宗親さんはスマホのライトで私の傷口を照らすと、「綺麗になったかな」とつぶやいて。
同じようにもう片方の足も、丁寧に洗ってくださった。
「足拭きますよ?」
私を連れ出してくれた時にあらかじめ一緒に持ち出していたのかな。
真っ白な真新しいタオルで傷口を避けるように丁寧に水気を拭き取ってくださると、宗親さんがもう一度私を抱き上げる。
「まだ、血が滲んできてますし、中でちゃんと止血しましょう」
(ああ、この人はいつも卒なく物事をこなすな……)
泣きすぎてぼんやりした頭で、宗親さんが私を連れ出す際、濡れた足を拭くタオルまで準備してくださっていたことに感心してしまう。
「最近はね、消毒液は使わないんだそうです」
私の傷口を、スチールラックから取り出した真新しいタオルで押さえて止血すると、同じ棚の違う段からラップを引っ張り出してゆっくりと傷口に当てる。
コメント
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宗親さん、優しいね。