初夏の風が吹き抜けていく。
暑かった日中とは違い、夕暮れは少し肌寒いぐらいだ。
今日は王立学園の卒業式だった。
この日を迎えられたわたしは、本当に幸せだと思う。
そして陽の落ちたいまから、恒例の卒業パーティーだ。
最初は軽い気持ちだった。
わたしの婚約者である第3殿下のクリス殿下は前髪が長く、表情も見えず(見ようともせず)なにを考えているかもよくわからない(知ろうともせず)薄気味悪い方で、そしてかなり無口で一緒にいてもつまらない方だった。
だから、ひとつ年上だった学園でも知らない人はいないぐらい美男で有名の侯爵家の3男のペイトン・プレイスに声を掛けられた時は浮かれてしまった。
騎士団に所属している彼はたくましく、その見た目だけに惹かれた。
何度か逢瀬を重ねるうちに、一時の感情に流されて肌を許し、何度も交わった。
わたしは欲望に抗えなかったのだ。
思いがけずに婚約者でない、ペイトン様との子を宿してしまったわたしは、初めて事態の深刻さに気づいた。
こんなことは友人にも、家の誰にも相談できる訳がない。
絶望の淵に立った。
とにかくペイトン様と別れて、人知れず子どもを堕ろそうと思い詰めていた。
それで全部を無かったことにできると思っていた。
ペイトン様と別れ話を人がいない場所と思って選んだ夕暮れの植物園でしたのだが、ペイトン様が思い通りに別れ話に頷いてくれない。
「なぜ、俺の気持ちを無視して自分ひとりで決めるんだ」
激しく問い詰められた。
その場面をまさかのクリス殿下とペイトン様の婚約者であるシャンディ嬢に見られ、悪阻が酷く体力的にも精神的にも限界だったわたしは、倒れてしまった。
クリス殿下にペイトン様との子を宿したと知られた瞬間、もう死ぬしかないと思った。
そして、ペイトン様の婚約者であったシャンディ嬢から「ペイトン様を愛されていますか?」と真っ直ぐな瞳を向けられ聞かれた時、即答が出来ない自分を恥じた。
彼女に「貴女にも責任がある」と言われた瞬間は悲しく、とても腹も立った。
わたしはこんなに辛い思いをしているのに!
と。
でもいま、彼女の言葉はわたしの中で支えとなっている。
あの時、自分の都合の良いようにひとりで勝手に決めて、逃げようとしていた。
辛いのはわたしだけではない。
あの時、独りよがりで自分に酔い、甘かったわたしに、彼女は敢えて厳しい言葉を言ったのだと理解できたから。
あの言葉にさえ耐えられなければ、これから先はもっと厳しい現実が待っていると、彼女は教えてくれたのだ。
いま思えば、シャンディ嬢の言葉は、優しい言葉だったのだとわかる。
あの後、様々なことをペイトン様や家族、クリス殿下と話し合った。
誰もわたしを責めなかった。
そして、今日でわたしとクリス殿下は婚約を解消する。
それは公にされている。
今日まで婚約していたのは理由がある。
この卒業パーティーにふたりで出席し、今まで円満であったことを印象付けること。
そして、明日から隣国マッキノンに「留学」されるクリス殿下。
何年かかるかわからない「留学」のために、泣く泣くわたし達は婚約解消に至るというシナリオのためだ。
クリス殿下はわたしには直接説明をされなかったけど、このシナリオはクリス殿下の提案だったらしい。
わたしとペイトン様が面白おかしく貴族達の噂にされないようにとの配慮だ。
クリス殿下と仕方なく婚約解消に至り、そしてペイトン様と結婚というシナリオ。
クリス殿下を裏切ったのはわたしなのに。
どうして、わたしを守ろうとするの?
ペイトン様と婚約していたシャンディ嬢は、「シャンディ嬢が病で倒れ、婚約解消」だ。
どうして?
わたしと浮気をしたのはペイトン様なのに。
シャンディ嬢はわたしを恨んでいないの?
ペイトン様もクリス殿下もいろいろと画策されて事情を知っているようだが、わたしにはなにも知らされていない。
身重の身体を案じてくれたのだろう。
「アドニス嬢、行きましょうか」
わたしをエスコートするのに手を差し出し、優しく微笑むクリス殿下。
初めて見る、晴れ晴れとした表情。
貴方は誰?
初めて見る彼の瞳の色。
彼の差し出した手を取る。
「ねぇ、クリス殿下。最後にひとつだけ教えてください。貴方をこんなに変えたのは誰なのですか?」
優しく遠くを見つめて、微笑まれたクリス殿下の表情に思わず見惚れた。
愚問だったわ。
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