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雨が止んだのは、思ったよりも早かった。
洞窟の外を覆っていた激しい雨音が、いつの間にか遠ざかるようにして消えていく。代わりに雨をたっぷりと含んだ木々の葉からぽつ、ぽつと静かに滴が落ちる音だけが静寂の戻った森に響き始めた。
『…止んだか。』
外の空は、いつの間にかすっかり薄暗い濃紺に染まり始めている。このまま完全に夜の闇が落ちてしまえば、修道院の人間たちは《佐久間が帰ってこない》と、大騒ぎで森を捜索し始めるに違いなかった。
俺は、自分の身体へ全体重を任せて寄り掛かり、小さく丸まっている佐久間を見つめた。
穏やかな寝息。こんな森の奥で警戒心なんて欠片もないような、あまりにも無防備な寝顔。その細い腕は、未だに俺の尻尾をがっしりと抱き締めたままで、離してやる気配すらない。
『………。』
困った。本当に困った。こんなに気持ちよさそうに眠っているのだから、起こしたくはない。けれど、人間の世界へ帰さなきゃいけない。
どうしたものかと、心底困り果てた大きな溜息を一つ吐き出した、その時だった。
薄暗い洞窟の入り口から、淡く温かい橙色の光がふわりと差し込んできた。
『照にぃー?』
洞窟の外から聞き慣れた声が聞こえる。
『照にぃ、おるー?』
『康二、…静かに。』
炎の翼の光量を限界まで弱めた康二が、ひょこっと洞窟の壁から顔を覗かせた。
『…。えぇぇ…?』
次の瞬間、光景を目にした康二は、ニヤけたような声を上げそうになるのを両翼を使って口を押さえた。
そこへ、足音を完全に殺して、ゆっくりと蓮も姿を現した。
『見つかった?』
いつものように穏やかな声で問い掛けながら、蓮が洞窟の中へと静かに目を向けたその時。
『………。』
何が起きても動じない冷静な蓮までが、一瞬だけ驚きに言葉を失って立ち尽くした。
『…すっかり懐かれてるね。』
ぽつり、と蓮が呟く。俺は急激に押し寄せてきた気恥ずかしさに、大きな耳をぺたんと後ろへ伏せて視線を逸らした。
『…これ、どうしようか。』
『どうしようって、』
蓮は、声を出さずに小さく笑う。
『そのまま運ぶしかないでしょ。』
『だよな…。』
俺はもう一度、その懐に入り込んでいる佐久間の寝顔を見下ろした。
《なんだか、安心します。》
さっき彼がその細い指先で俺に触れながら、ぽつりと零した言葉が、まだ耳の奥で心地よく反響していた。
人間から忌み嫌われ、時に恐れられ、遠ざけられてきた俺の存在。その姿を見ても全く怖がらず、温かいと言って愛おしげに触れ…こんなにも無防備に、全てを信じきったように眠ってしまう。
そんな風に俺に接する人間は、長い歴史の中でも、佐久間が初めてだった。
「照にぃ、」
畳んだ炎の翼はそのままに、いつの間にか人間の姿に変わった康二が唇を尖らせて考え込みながら、すやすやと眠る佐久間の傍へと、忍び足で近付いてくる。
「流石に起こしたら可哀想やんなぁ…?」
『…あぁ。』
「ほんなら、人の姿になって抱っこしたらええんちゃう?」
『変化した時点で起きるだろ。』
俺は即答した。
「そっかぁ…どないしょ。」
康二は困ったように、自分の髪をくしゃくしゃと掻いた。すると、その様子を静かに見守っていた蓮が穏やかに口を開いた。
『俺が眠りを少しだけ深くしてあげる。』
『?』
『大丈夫、身体に悪い影響はないよ。』
洞窟の入口をくぐり、蓮もゆっくりと佐久間へと歩み寄る。彼の美しい黒い額から伸びる凛とした角の先が、淡く白く輝いた。その優しくて静かな光が、波紋のように広がって佐久間の額から全身へと包み込んでいく。彼の眠りを妨げることなく、その意識の更に深い場所へと、優しく、心地よい眠りを重ねていくような魔法。
『…うん、これなら少しくらい動かしても起きないよ。』
『…助かる。』
俺は、康二が佐久間を支えているうちに静かに人の姿へと戻った。
佐久間の背中と膝の裏にそっと腕を滑り込ませると、そのまま抱き上げる。
狼の姿ではあまり感じなかった。腕の中に収まったその身体は、驚く程に軽かった。少し力を込めれば壊れてしまいそうなくらい、小さくて…儚い。
「………。」
康二が佐久間の頭からずり落ちかけていた、俺の上着を彼の身体へそっと掛け直す。 眠る佐久間は、胸元で小さく《ん…、》と身動ぎしただけで、再び俺の胸へと顔を深く埋め直した。
「っへへ…。めっちゃ安心しきっとる。」
康二がくすくすと小さく笑いながら佐久間の頬をぷにぷにと突く。
俺は何も言えなかった。佐久間を抱き締めていると、心臓が締め付けられるように温かくて、甘くて。その、今まで経験したことのない感情の正体を今の俺はまだ、言葉にすることができなかったからだ。
『俺は先に帰るね。康二、一緒に行ってあげて。』
「おっけーい!」
人間の姿になってしまえば、俺は夜目が利かない。だからと言って再び獣の姿に戻れば、下ろす時に苦労しそうだ。蓮が静かにそう告げると、康二は再び鳥の姿へと戻り、その炎の身体をぽうと優しく灯して、俺の足元を照らし始めた。
『ほな行こかー!』
蓮の後ろ姿を見送り、康二と一緒に静かに夜の森へと歩みを進める。
雨上がりの澄み切った空には、雲の切れ間から満月が顔を覗かせ、濡れた森を銀色に照らしていた。
けれど、俺の心の中では雨上がりの森を照らす月明かりよりも、腕の中の温もりの方が今はずっと眩しかった。
その温もりは、まだ名前を知らない小さな感情となって静かに俺の胸へ降り積もっていった。
朝、小鳥の囀りで僕は目が覚めた。
「…ん、」
ゆっくりと身体を起こすと、そこは窓から柔らかな朝の光が差し込む、見慣れた自室だ。
「………あれ?」
昨日は確か、森の中でスコールに見舞われて、洞窟で雨宿りをしていたら照さんが来てくれた。
少しお話をして、彼の大きな身体を撫でさせてもらって──…そこから先がどうしても思い出せない。
「もしかして、寝ちゃった?」
考えても記憶の糸は繋がらず、ベッドの上で小さく首を傾げる。その時、ふと椅子の背に掛けられていた大きな黒い上着が目に入った。
「これは、」
見覚えのある上着。そっと手に取って引き寄せると、知っている香りがふわりと鼻を擽った。
「照さんの…?」
何故これがここにあるのだろう?不思議に思いながら、こっそりそれを羽織ってみる。袖は余ってぶかぶかで。
「…ふふっ、大きいなぁ…。」
思わず笑みが零れた。
今日の洗濯で一緒に洗わせてもらって返そう。そう思いながら、脱いだ上着を大切に腕に抱えて食堂へと向かった。
中に入ると、丁度朝食の支度をしていたラウールくんが、嬉しそうに振り返った。
「あ、おはよう、大介くん!」
「おはよう、ラウールくん。」
席へ着きながら、僕は彼に問うた。
「ねぇ、ラウールくん。」
「ん?」
「僕、昨日どうやって帰ってきたか、全然覚えてなくて…知らない?」
「えっ?」
ラウールくんは少し驚いたように、大きくて綺麗な目を丸くした。
「雨宿りしてたところまでは覚えてるんだけど…。」
「大介くん、礼拝堂の前で眠ってたんだよ。」
「え、礼拝堂?」
(照さん、修道院の敷地に入れないんじゃ…?)
照さん以外は聖獣や精霊だ。もしかしたら代わりに入ってくれたのかな。
「神父様が見つけた時にはぐっすり寝てたらしいよ。そこから部屋まで運んでくれたんだって。」
「嘘!?うわ、恥ずかしい…!後でお礼言わなきゃ。」
ただただ自分の失態に両手で顔を覆って赤くなる。
「疲れてたんだよ、きっと。」
「そう、なのかなぁ…。」
苦笑しながら頭を掻く。その時、ラウールくんの視線が、僕が大事そうに膝に乗せている黒い上着へと向いた。
「あれ、それって大介くんのじゃないよね?」
「うん。多分なんだけど、知り合いのだと思う。取り敢えず、綺麗に洗濯しようと思って。」
慈しむように上着を見つめる。すると、いつかのようにトクンと胸が鳴った。
水瀬菜音
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