テラーノベル
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腕の中に収まるアクアの体は、驚くほど細く、そして柔らかい。
人魚という、これまで図鑑や伝承の中でしか触れることのできなかった未知の生命体。
本来なら海洋オタクとしての知的好奇心が爆発し、その鱗の並びやエラ呼吸の構造を真っ先に観察したいところだ。
だが、今はそれ以上に「一人の少女を抱きとめている」という生々しい実感が、俺の理性を激しく揺さぶっていた。
シャツ越しにダイレクトに伝わる、彼女の微かな、しかし懸命な鼓動。
浄化魔法を施した余波だろうか。彼女の透き通るような肌からは
まるで凪いだ海から立ち上る潮騒のような、清涼で甘い魔力が霧となって溢れ出し、俺の鼻腔をくすぐる。
その香りに、頭が少しクラリとした。
「……あ、あの、アクア?」
「はい?カイリ、様?」
俺の胸に顔を埋めたまま、彼女がくぐもった声で応じる。
その吐息が胸元をかすめ、気恥ずかしさが限界を突破しそうになる。
何より、彼女が口にした「カイリ様」という響きに、心臓が大きく跳ねた。
つい数時間前まで、血の繋がった実の家族から「ゴミ」だの「無能」だのと呼ばわりされ
泥を啜るような思いで追放された俺にとって、それはあまりに眩しすぎる、救いのような敬称だった。
「気分はどうだ?まだどこか痛むところはあるかい?」
「いえ……。カイリ様の魔力が、とても温かくて…あんなに苦しくて、息もできなかったのが、まるで嘘みたいです」
アクアはゆっくりと顔を離すと、潤んだ瞳で俺をじっと見上げた。
魔毒が完全に抜けた彼女の肌は、月光を反射する真珠のように透き通る白さを取り戻している。
煤けてボロボロだった桃色の髪も、今は夕陽の残光を浴びて、最高級の絹のような光沢を放っていた。
(……海洋オタクとして、いや、一人の男として断言する。これは、世界一の絶景だ)
だが、見惚れている余裕はすぐに消えた。
俺たちがいるのは不安定な波打ち際だ。
このまま彼女を抱きかかえて突っ立っていては、すぐに満潮がやってくる。
それに、彼女は人魚だ。
陸の上では、その美しくも長大な尾びれは、彼女の自由を奪う重たい枷でしかない。
「アクア、少し移動しよう。ここじゃ潮が満ちてくるし、君の体力をしっかり回復させるための場所を作らないとな」
「移動……。でも、わたくし、人間さんのような足がないので……自分では、地上で一歩も歩けなくて……」
申し訳なさそうに、そして己の無力さを恥じるように俯く彼女。
その姿がたまらなく愛おしく、守るべき存在なのだと再認識させられる。
俺はさらに深く腕に力を込め、彼女の体をひょいと持ち上げた。
世に言う「お姫様抱っこ」の形だ。
「分かってる。だから、俺が少し君を運ぶから……落ちないように、しっかり掴まっていてくれるか?」
「っ……! は、はい……っ、ありがとうございます、カイリ様」
アクアの顔が、その髪の色と同じくらい、あるいはそれ以上に鮮やかな赤色に染まる。
彼女は恥ずかしそうに、だが確かな信頼を込めて俺の首に細い腕を回し、再び俺の胸元に顔を隠した。
腕に伝わる彼女の体温が、俺の歩みを確かなものにする。
(美少女が手の中にいるからといって、変なことを考えるな俺…平常心だ、平常心)
自分にそう言い聞かせ
俺はザッザッと砂を踏みしめ、崖下の岩陰にある、少し開けた場所を目指した。
潮風が吹き抜け、外敵からも視認されにくい絶好のポイントだ。
しかし、アクアをそのまま乾いた岩場に座らせようとして、俺はすぐに思い直した。
人魚の皮膚は多湿な環境に適応しており、乾燥には極めて弱い。
浄化魔法で命を繋ぎ止めたとはいえ、このまま放置すれば深刻な脱水症状を起こしかねないし、尾びれの粘膜が傷ついてしまう。
「アクア、少し待っててくれ。すぐに『快適な場所』を作るから」
「快適な、場所……?」
不思議そうに小首を傾げる彼女を横目に、俺は砂浜に膝をつき、力強く掌を地面に押し当てた。
使うのは、俺を追放に追い込んだ、あの『無能』と蔑まれたスキルだ。
「固有スキル『水質浄化(モレキュラー・フィルタリング)』──多重展開」
俺が狙ったのは、周囲に淀んでいた『魔毒の霧』。
一般的には人を死に至らしめる呪いのような霧だが、科学的、魔導的視点で見れば
これは「高純度の魔力」と「揮発した海水」が異常な濃度で混ざり合った物質だ。
ならば、その成分を分子レベルで選別し、組み替えれば、理論上は「何でも」作れる。
パチパチ、と静電気が爆ぜるような音が辺りに鳴り響く。
俺の精密な魔力操作によって、霧から不純物が弾き出され、抽出された「純水」が空間に集まっていく。
それはやがて巨大な水の球体となり、空中を浮遊した。
さらに、砂浜に含まれる珪素(シリカ)を浄化・加熱し、一瞬にして透明な『強化ガラス』の浴槽へと成形していく。
現代知識にある耐圧構造を意識した、流線型のデザインだ。
「な、……何を、なさっているのですか……?」
アクアが驚きに目を見開く中、俺は仕上げに、霧から純粋な「魔力の結晶」を取り出し
それを浴槽の底に埋め込んだ。
これは周囲の魔力を吸収し、常に水を新鮮に保つ簡易的な『魔力循環ポンプ』の役割を果たす。
「よし、完成だ!特製、自動浄化機能付きポータブル・ジャグジー」
「ぽーたぶる……?じゃぐじー……?」
聞き慣れない言葉に呆然とするアクアを、俺は再び優しく抱き上げ、作りたてのガラス浴槽の中にそっと下ろした。
中には、人魚の生理機能に最も適した塩分濃度と
彼女の体温を優しく包み込む水温に調整された、最高純度の海水が満たされている。
「……っ、ふぁ……」
水に触れた瞬間、アクアの尾びれが嬉しそうにパシャリと跳ねた。
先ほどまで赤黒くただれていた鱗に、清浄な水のヴェールが纏わりつき、細胞の再生を劇的に促していく。
彼女は心地よさそうに目を細め、ゆらゆらと水の中で尾びれを揺らした。
「すごい……。こんなに澄んだ、光っているようなお水、見たことがありません。それに、傷が……全く痛くないです。それどころか、力が溢れてくるみたい……!」
「それは良かった。現代の浸透圧理論と魔力循環の賜物だな。これなら皮膚の乾燥も防げるし、体力もすぐに戻るはずだ」
海洋オタクとして、推しである人魚の快適な飼育……
いや、もとい、尊いパートナーの住環境を整えるのは、もはや当然の義務。
むしろこれくらいで驚かれては困る。
だが、これだけでは終わらない。
俺は次に、霧から精製した「不純物ゼロの純粋な塩」を、バケツ一杯分ほど取り出した。
「アクア、お腹は空いてないか?」
俺の言葉に反応するように、アクアのお腹が、静かな海辺に響くくらいはっきりと「ぐぅ……」と鳴った。
彼女は顔を真っ赤にして、慌てて両手で顔を覆ってしまったが
指の隙間からこちらを覗く瞳は、隠しきれない期待に満ち溢れていた。
この島は、かつての俺の故郷の連中が、忌むべき「死の島」と呼んで恐れた場所。
だが、分子レベルの操作が可能な俺にとっては
ここが、現代の科学知識と魔法が交差するこの世界で唯一の『最強の開拓拠点』だ。
俺を捨てた無知な連中が、カビの生えた壁の中で古い魔法にしがみつき
魔毒に怯えながら暮らしている間に、俺はこの海を、この島を、世界一贅沢なリゾートに変えてやる。
「それなら最高のディナーをご馳走しよう。まずは、この海で獲れたての魚の『特製魔法塩焼き』からいくか」
俺は浄化魔法を指先に纏わせ、波打ち際に潜む極上の獲物を、海洋オタクの鋭い眼光でロックオンした。
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