テラーノベル
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駅前のシアトル系コーヒーショップ。
窓際の席で、シズカは新発売の期間限定フラペチーノをストローで転がしていた。
鏡のような窓に映る自分は、同僚たちが選んだふわふわのアイボリーのニットに、柔らかいプリーツスカート。
つり目の鋭さを和らげるピンクベージュのメイクを施し、耳元には小さなパールのピアスが揺れている。
シズカ「(……私、本当に戦場を間違えていないかな)」
ソワソワと落ち着かない彼女の視界に、1人の男が入り込んできた。
人混みの中から、見覚えのある小さな後ろ姿を見つけた。
だが、俺は数歩手前で足を止めた。
そこにいたのは、いつもの「理知的な女」ではなかった。
春の陽だまりのような、柔らかくて甘そうな空気を纏った1人の若い女の子。
天利「(……誰だ、あの子)」
本気でそう思いかけた時、彼女がこちらに気づいて顔を上げた。
天利「……シズ、ちゃん?」
シズカ「天利さん!
……あ、あの、びっくりしましたわ。
ラスプーチンかと思ったら、普通にお洒落なおじさまが歩いてくるんですもの」
天利「ラスプーチン……?
どこかの大統領だっけ?
いや、誰かは知らないけど、俺の方こそ、君が別の誰かに連れ去られたかと思った。
……その服、よく似合っているね」
シズカ「今日のために新調したんです」
そう言って、その場で華麗に一回転する彼女に見とれた。
そして、俺は自分の格好を見下ろした。
上質なネイビーのコットンニットに、グレーのスラックス。
左腕の墨を隠すための長袖だが、彼女の目には「品の良い大人のカジュアル」に映ったらしい。
シズカ「少しだけ、泥臭い色気を期待していたのですけれど」
天利「はは、期待に沿えなくて悪かったね。
……次はもう少し、野暮ったい格好で来ようか?」
シズカ「お好きにどうぞ。
これ、お口に合うか分かりませんけれど、
おじさまが好きそうな、甘くないカフェラテですわ」
彼女から温かいカップを受け取ると、指先が触れ合った。
仕事着を脱いだ彼女の肌は、よりいっそう壊れやすく、守らなければならないものに感じられた。
俺の車で、喧騒を離れた一等地のマンションへ向かう。
到着した物件の玄関を開けた瞬間、シズカは小さな感嘆の声を漏らした。
シズカ「……天利さん。
あなた、本当にとんでもないものを……」
すぐに彼女の物で埋め尽くされるであろうシューズクローゼット、広大なリビング、巨大なクローゼット。
そして、俺が最もこだわった和室の前で、彼女は立ち止まった。
シズカ「……水屋 まである。
それにこれ、床の間だけでなく、畳に炉が切ってあるじゃない。
……天利さん、茶道の経験がおありなの?」
天利「いや……全く。
ただ、組の奴に『茶道をするならこれが必要だ』と吹き込まれてね。
……その、水屋っていうのは何なんだい?
炉というのは、この畳の穴のことかな?」
シズカ「ふふ、『お掃除屋さん』にも風流な方がいらっしゃるんですね」
天利「……風流、か。
俺たちの世界の『お掃除』は、畳を汚すことの方が多いんだけどね」
シズカ「……ええ。だからこそ、ここで私がその汚れを『お清め』して差し上げますわ。
お茶の香りで、ね」
天利「……君がそう言ってくれるなら、無理をさせて用意させた甲斐があったよ。
今度、俺にも茶を淹れてくれる?」
シズカ「ええ、喜んで。
……でも、お作法には厳しいですわよ?」
冗談めかしてそういう彼女に
俺は「お手柔らかに……」と両手を上げる。
シズカ「ふふ、水屋は茶室専用の準備室兼キッチンで、炉は11月~4月に、お湯を沸かすための囲炉裏のようなものだと思ってくださいな」
天利「へぇ〜。
5月〜10月はどうするんだい?」
シズカ「炉を畳で塞いで、代わりに風炉と呼ばれる焼き物や陶磁器、唐銅などの金属製のポータブルコンロのようなもので湯を沸かします。
寒い時期はお客様に近い位置で炭をおこし、お湯を沸かして温まっていただき、暑い時期は逆にお客様からできるだけ遠い位置に置いて、火の熱気を逃がします」
天利「へぇ〜、色々あるんだね」
シズカ「……これを用意するのがどれだけ大変か……。
本当に、過保護ね」
彼女が和室の畳を愛おしそうに撫でるのを見て、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
内見を終え、リビングのカウンターで書類を広げる。
いつもなら、こんな手続きは下っ端にやらせる。
だが、今はただの男として、彼女の横に座っていた。
天利「名義は、予定通り君の名前にする。
……ここに、署名を」
シズカは頷くと、バッグから万年筆を取り出し、淀みのない所作で契約書にペンを走らせた。
『蓼原 志津香』
天利「……たで、はら?」
シズカ「ええ、『蓼食う虫も好き好き』……。
私にピッタリの姓でしょ?」
天利「(蓼食う虫、か。
……毒だと分かっていて俺を選んだ彼女には、これ以上ないほど皮肉で、愛らしい名だ。
ならば俺は、その虫を一生離さない、地獄のような味の蓼にでもなろうか)」
シズカ「シズカは漢字でこう書くの。
志が津……港に集まり、香る」
天利「……そうか。いい名前だね」
俺はその名前を、心の中で反芻した。
界転組の新界政宗とは、いわゆる腐れ縁で、そいつの姉である優子の部下。
そして、シズカの父がどこぞの極道だということも知っている。
だが、この時の俺はまだ知らなかった。
彼女が署名した「蓼原」という姓の裏側に、俺も知っている、ある男との血縁が隠されていることを。
天利「(蓼原 志津香。
……俺が守るべき、たった1人の女の名前か)」
俺は彼女の華奢な肩を抱き寄せた。
この新しい城で、彼女がいつか「名乗るかもしれなかった姓」という呪縛に苦しむ日が来ることも想像せず、ただ春の午後の穏やかな光に目を細めていた。
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