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「おお、徳子《なりこ》様が見つかった!子を産んでいたとは、うかつでした。なんとまぁ、めでたいことで。しかし、このような者めらが、ワイワイと押し掛けて来たら、気も立って、乳の出も、悪くなるでしょう」
武蔵野は、探し物が見つかったと、ほっとしつつ、猫の乳の出を沙奈《さな》と心配し始めた。
三者三様、それぞれ思案していると、皆の勘違いを正すかのように、爽やかな声が流れてきた。
「おや、放った沙奈の戻りが遅いと思いきや、道草を食っていたとはなぁ」
くすくす笑いながら、守近が、騒ぎを見守っている。
「あー!守近様!沙奈は、猫ちゃんじゃありませんよぉ!あの、わからんちんの髭モジャのせいで、戻れなかったのです!」
これはこれはと、守近は、拗ねる幼子の機嫌をとりつつ、連なる検非違使に視線を移す。
看督長《かどのおさ》はじめ一同は、慌てて跪拝《きはい》した。
「さて、其処《そこ》な髭モジャ、何用ぞ?」
惚けているのか、本気なのか、守近の口振りに、野次馬は、笑いかけたが、まさかの、少将その人の登場とあっては、流石に、無礼千万。肩を揺らして、笑いを堪えた。
「何やら、屋敷の者が世話になっているようだが?」
居なくなったはずの少将が現れた、と、いうよりも、その装いに、看督長《かどのおさ》は、慌てていた。
狩衣《かりぎぬ》に指貫袴《さしぬきばかま》姿──。と来れば、 公達の部屋着《しふく》、つまり、守近は、勤めから離れてくつろいでいたことになる。
これは、とんだところに出くわした。人の休みを邪魔したと、小言の一つも食らうだろう。
それにしても、かの少将の噂は耳にしていたが、なんと、見目麗しい姿だろう。それは、屋敷の回りに集まっている野次馬も同じ思いのようで、遠巻きに、ほぉと、驚きの声と共に、その姿に見惚れていた。
なにより、纏《まと》う衣の粋なこと。当然、貴族である以上、衣は、上質の絹生地で仕立てられている。そして、色目は、今の季節に合わせた、蘇芳菊《すおうのきく》。
上に着る狩衣《かりぎぬ》は、表地が白、裏地は濃い紫がかった紅色の濃蘇芳《こきすおう》。
表生地から、微《かす》かに現れ見える裏地の色は、ひときわ鮮やかで、それでいて、深みのある発色具合は、余り見受けられないものだった。特別に染め上げたものなのだろう。
さて、衣《ころも》の色目合《いろめあ》わせというのは、単に色の名前を連ねたものではない。
色の名によって、季節という「時」を示し、その時の景色、「風情」を感じさせるという、趣向を含むものなのだ。
そして、守近の纏《まと》う、蘇芳菊《すおうのきく》とは──。
表地の白は、白菊を。裏地の蘇芳《すおう》色は、霜にあたった菊花の色の移り具合を示している。
たかが二枚の布合わせであるが、守近が纏うと、菊花の色の変化の様が、まざまざと目に浮かぶようで、なんとも言いがたい儚《はかな》さをも醸《かも》し出していた。
加えて、下に履く指貫袴《さしぬきばかま》は、八藤丸文《はちふじまるもん》が織り込まれた、薄紫色の緯白《ぬきじろ》生地。
と、まさに、絵巻物から出て来たような、見事な姿に、野次馬の視線は、自然、検非違使達へと向けられる。
こちらときたら、麻袋を頭から被ったかのような、野暮天《やぼてん》ぶり。
これが、都を守るごときで、日々、大路《とおり》を闊歩しているのだから、泣けてくる。
野次馬は、あからさまに、落胆した。
ところで、突然の光輝く貴公子の登場に、目が眩み、皆は、肝心な事を見逃していた。
なんと、守近、頭に何も被っていない。
貴族ならずとも、男子たるもの、頭には被り物を、というのが鉄則で、被っていないという事は、下着姿で出歩いているに等しく、実に、みっともない様《さま》なのだ。
武蔵野も沙奈《さな》も、あっと、声を挙げ、守近に責め寄った。
守近も、失態に気がついたのか、
「あー、しまった。烏帽子《えぼし》を、君実《つま》の寝所に忘れて来たようだ」
と、大きな声でのたまわる。
「では!沙奈が、お持ちしますっ!」
「沙奈や、余計なことはしなくていいよ。うーん、お前には、まだ、少し早かったかな?」
「えー!でも、でも!守近様!みっともないですよぉ!」
沙奈《さな》の言い分は、良くわかる。しかし、妻の寝所に、置き忘れた、と、いうことは、とどのつまり、童子が踏み行ってはならない大人の夢物語が、始まっていたということで……。
だが、子を産んで乳がどうのと言っていた。それでも?
まあ、そこは、他人が口出しすることではないだろう。
と、野次馬は納得し、
「あー、お姫《ひい》さん、少将様の言う通り」
「そうそう、別に気にすることはないよ」
「悪いのは、この武者達さ。乳の出が悪くなったんだろ?」
と、気を回して、沙奈を説得し始めた。
「いやいや、まったく、迷惑を かけ続けているねぇ。ああ、私もかな?」
と、惚けてみせる守近に、野次馬は、またもや、ほおぉと息をつく。さすがは、都でも一二を争うモテ男。なんと、人あしらいの粋なことか。
守近は、皆の羨望の眼差しを受けながら、踵を返すが、はたと、立ち止まり、重い口調で、検非違使達へ問いかけた。
「さても、其処《そこ》な検非違使よ。別当宣《べっとうせん》は、何処《いずこ》に」
あっ!と、武蔵野と、沙奈が息を飲む。
「武蔵野様!沙奈、忘れてました。べつとうぜん、と、伝えるようにと、守近様に、言われてました!」
「沙奈や、気にしなくても良いのですよ。忘れていたのは、この私、武蔵野。ああ、なんたる、失態……」
一方、検非違使達はというと、ぶるぶると震えながら、地面に頭を擦り付けている。
「まあ、構わない。己の勤めにまい進したのだろう。しかし、次からは、気を付けられよ」
言って、守近は、奥へと消えた。
「あのお、武蔵野様?べんとうせん、とは、何ですか?」
「其処な髭モジャに聞けばよろしい」
「ぇーー!やですよ。わからんちんの髭モジャなんか!」
「べつとうぜん」でも、「べんとうせん」でもなく、「別当宣《べっとうせん》」なのだが。つまりは、検非違使庁が発給した命令文書のことなのだ。
行き掛かり上、急遽屋敷に駆けつけた検非違使達は、別当宣の発給を受けていない。
いくら、事を急すると言えども、命を受けずに、少将の屋敷に踏み込もうとしたのは、まずかった。
地面にひれ伏す検非違使達に、武蔵野が、声をかける。
「さあ、いつまでここにおられる?勤めにお戻りなされませ」