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夢龍は、吟じる間合いの為に、書見台をパシッと、扇子の背で叩いた。
その凛とした姿に、い並ぶ女達から、ほぉー、と、ため息が漏れる。
いつものことか、と、後ろに控える春香は、ほくそ笑み、次に迫る自分の琴の演奏の為にこっそりと弦の具合を確かめた。
「では、これにて」
物語を一節語りきると、夢龍は、頭を下げた。
ほほほ、と、軽い笑い声と共に、ぱらぱら拍手が起こる。
良家の奥方として、芸人の前で感情をあらわに出来ないという、素振りを通す田舎両班《いなかきぞく》を、夢龍は内心笑っていた。
そこまでして、房《へや》の内へ男を入れたいのか──。
前に座する女達は、春香の芸をみたいと呼びつける金と暇をもて余す女達。
これも、夫である屋敷の主人の女癖の悪さを突いて、ご褒美とやらにごり押ししての事だろう。
夢龍が春香と組んでからは、ひっきりなしに、御屋敷に呼ばれるようになっていた。
たまに、夜の宴にも呼ばれることから、評判は広がっているのだろう。
さて、都育ちの夢龍が、髪を結い上げ髭を整え一張羅を纏《まと》えば、たちまち貴公子ぜんとなる。
とはいえ、それが彼の本来の姿なのだが──。
それを見抜いてかどうかは、わからない。だが、春香は香《こう》まで用意して、夢龍の身支度を周到に整えた。
……ふん、女ってもんはね、てめーの亭主より、夢を見せてくれる男を求めるのさ……。あー、あんた、夢龍だったね。丁度いいや。源氏名にお使いよ……。
と、嘘か誠か真意はわからないままに夢龍は、男朗読師として奥方達の見せ物として、春香につれ回される事になった。
気取ってはいるが、田舎となると上流の位に属する女でも読み書きが出ない者が多い。
故に、朗読の需要が生まれる。
そして、女向けの書物となると、訓示のような妻とはこうあるべきなどと、退屈な内容の物しかない。
文字が読める者は、こっそりと、男達が読む男女が交わるような、俗本を取り寄せ退屈しのぎにするのだが、さて、文字が読めても、それまで。
物語に出てくる、色事は、どこにも転がっていない。
そこへ──。
若い男、夢龍が、詩吟を披露する。
ありきたりの逸話であったり、たまに、恋物語を入れてみたりは、するが、内容はどうでも良いのだと春香に言われ、夢龍はその所作を徹底的に叩き込まれていた。
その動きは夢龍にとっては、青天の霹靂に近いものだった。
春香という、女に、指示されると言うことよりも、叩き込まれる異常に芝居がかった大袈裟な動きに面食らった。
そのような、作法など聞いたことも見たこともないと、一度、弱音を吐いた所、春香は大笑いして言った。
「当たり前さ、そんな動き、誰がするもんか。あんたが、動くから、映える。そして、色気ってもんを生み出すのさ」
「色気?私は男をだぞ?」
「あー、わかっちゃーいねぇーなぁー、おめぇーのお相手は、若い男に飢えた、ババア、いや、お姉様方なんだよ。ってことは、少しは、若さ溢れる男、あー、この子は、あたしが守ってやんなきゃ~と思わせる、空気ってもんを出さなきゃいけねえのよ」
黄良までが口を挟んでくる。
「ならば、黄良、お前もどうだ?上背はある、見映えも悪くないが?」
夢龍の、問いに黄良は、そりゃ、どうもと言いつつも、鼻であしらった。
「言い分は、分かるよ。こいつも、見映えは、悪くない。いや、かなり、良い方に入る。けど、黄良は、禽獣《きんじゅう》だ……」
渋い顔をして言う春香に、黄良も納得しているのか、頷いていた。
「あっ」
と、夢龍はうっかり声を発した。
「まっ、仕方ねぇ事だ。こうして、生きていられるだけでましだって」
と、黄良は言った。
「これも、すべて春香のお陰。いや、正確には春香の、おっかさんのお陰かなぁ」
「春香の?」
その先を、夢龍が聞いて良いのかどうかわからないと思いつつも、つい、口が動いていた。
そんな準備の末、夢龍は春香と組んでいる──。
今日の自分の役目は終わった。
羨望のような、なんとも居心地の悪い視線に耐えながら、次の春香と交代するため、夢龍は立ち上がる。
バサリと、春香に教わったまま、袖を翻し書見台を後にする。
たちまち、はあぁー、と、妙な吐息が流れてくる。
夢龍は、これが苦手だった。しかし、行きがかり上、というべきか、こうなってしまった以上、やり遂げるしかない。
何より、禽獣と呼ばれ、侮蔑の視線を常に浴びる黄良よりは、ましだろう。
しかし、あの男の苦労は、そうとうなものなのだな……。と、夢龍は、聞かされた事を、つい思い出した。