ベルニージュは逃げることも拒むこともできず、ただ少し早歩きで、城の外で起きているらしい騒ぎの元へ向かった。要塞の外壁には歩哨のための歩廊があり、そこをたどって城門の方へと回り込む。
後ろからラーガがついて来ていることは分かっていたが、振り返ることはできなかった。冷たい風に曝されているのに、まるで暖炉を間近で覗き込んでいるかのようだ。
急造の城壁の歩廊を巡り、南側の狭間の間から城門の外を見下ろす。すっかり夜は更けている。急峻な山々の黒い影が星々を噛み砕かんとする牙のように伸びている。しかし要塞は曲者を暴くための篝火が焚かれており、城門前は昼間のように明るい。
闇を背に、明かりに向かって一人の女が剣を構え、包囲するライゼンの戦士たちと対峙していた。相手がソラマリアのような怪物でもなければ、そのような均衡は直ぐに崩れるはずだが、戦士たちは攻めあぐねている。それもそのはず、戦士たちは勝ち目がないわけではなく、手出しできないでいるのだ。それは、その女がライゼン大王国の君主たる大王の血を引く王女の一人、リューデシアこと聖女アルメノンだからだ。そしてベルニージュはもう一つのことに気づく。
ベルニージュは簡易な詩句を唱え、蝋燭程度の小さな火の球を放った。明かりはふらふらと夜闇を斜めに横切り、戦士たちの包囲のさらに向こう、木立の辺りで破裂するように閃く。
すると幾人かの子供たちが慌てた様子でさらに木立の奥へと逃げ込んだ。しかしアルメノンを心配するように再び顔を出している。
それを見るとベルニージュは階段を急いで降りる。ラーガもついて来ている。
「機構に連れ戻されたのかと思えば、一人で戻って来た。かと思えば、子連れとは。訳が分からん」とラーガが呆れて言った。
同意の言葉しか思いつかなかったが、相槌すら打たずにベルニージュは階下へ急ぐ。
城門の周囲には群衆が集っていた。戦士たちだけではなく、使い魔たちが、決して大王国が味方という訳ではないことも忘れて入り混じっている。そして口々に憶測の言葉を呟いていた。
「騙す者!」とベルニージュはその辺りにいるだろうユカリ派の使い魔に呼びかける。「こっちに来て!」
ベルニージュについて来た使い魔は優男の姿をしている。軟派な笑みを浮かべ、軽やかな立ち居振る舞いだ。いつもこの姿だ。信用を得やすい姿なのだろう、とベルニージュは推測していた。
「ベルニージュさん。僕は荒事は得意じゃありませんよ? 荒事を起こさないのは得意なんですけどね」
「分かってるよ。あそこ見て」とベルニージュは子供たちのいる木立を指さす。「あの子たちを確保したい」
「悪いお人だなあ」と言いつつ、戦士たちの包囲網を避けて騙す者は声の届く所まで近づき、木立に呼びかける。「さあ、君たち。長旅に疲れたろう? お腹が空いて、凍えてしまって、眠くて仕方ないはずだ。この城には甘くて美味しいお菓子が食べきれないくらいあるし、暖炉のお陰でとっても温かい。それに全員分の柔らかなお布団があるんだ。さあ、こっちへおいで」
すると木立に隠れていた子供たちは一斉に騙す者の元へと駆けてきた。
「嘘じゃないじゃん」とベルニージュは隣で呟く。
どれも使い魔たちが用意できる。
「必要ないなら嘘などつかなくてもいいんですよ」と騙す者は本当のことを言った。
子供たちが城門の向こうへ行くのを戦士に包囲されているアルメノンも目で追っている。その表情には不安と僅かな安堵が入り混じっていた。
ベルニージュに押し出されて騙す者が呼びかける。
「投降した方が良いと思いますよー」
「何? その気の抜けた脅迫は?」と背後でベルニージュが囁く。
「これで十分なんです」騙す者の言う通り、アルメノンは剣を捨てて投降した。「むしろ、下手に脅せば義憤に駆られる、そういう目をしていますね、あの人」
騙す者の見立てが正しいかは分からないが、少なくともアルメノンはこちらの指示に素直に従った。
骨の芯まで凍え切った子供たちはアルメノンの携えていた育む者を含めて使い魔たちに任せ、アルメノン自身は潮風吹き込む急造要塞の中の港湾へと移動させ、篝火の周囲に集って尋問することとなった。最早一国の王女の扱いではないが、異を唱える者はいない。
ベルニージュもラーガでさえも群衆の一人として、アルメノンを取り巻く者たちの一人として、その王女の背後の辺りに立っていた。
まずはソラマリアが進み出た。「リューデシア。私が分かるか?」
どう話しかけたものか迷ったことが窺える。以前聖女アルメノンと話した時は、護女アルメノンだった頃のリューデシア王女とはまるで別人になっていた、とソラマリアは言っていた。
「いや、分からん。私がリューデシアだというのも初耳だ。アルメノンではないのか?」とアルメノンは答えた。
「わたくしのことも覚えておられませんか?」とレモニカが声をかける。「以前は敵対関係でしたが、混乱していたか、あるいは洗脳されていたか、したのではありませんか?」
リューデシアは首を振る。
「むしろ私が聞きたいくらいだ。私が私自身のことをどこまで分かっているのかさえ分からなくなってきた」
ソラマリアはベルニージュと目が合うと首を横に振った。リューデシアとは別人だということだ。そして半年ほど前に寺院で会ったアルメノンとも別人であるように、ベルニージュには思えた。
「では、分かることだけ教えてください」とレモニカが姉らしき存在に求める。「あなた自身のことを」
「いつの頃からか、気が付けば逃げていた」とリューデシアはぽつりぽつりと語り始める。「何から逃げていたのかもうろ覚えだが、焦がれるほどに自由を求めていた。それと、今はまるで女だが、ずっと男だった気がする。そして、長らく捕らえられていた、何も見えなくて、魂まで凍らせるような冷たい牢獄に。だがそれもいつの間にか抜け出していた。記憶が曖昧だ。奴が。そうだ。モディーハンナが俺を弄っていた。その内に分からなくなっていたんだ。何も、何も……」
リューデシアは俯き、項垂れ、虚ろに唸る。
「名は?」とラーガが妹の背後から問うた。
「名? 名は……」リューデシアは何かを探すように篝火を見つめる。「そうだ! 名は分かるぞ! ヒューグ! 私はヒューグと呼ばれていた!」
戦士たちが一斉に息を呑み、その視線の全てが不滅公ラーガに向けられた。
「そうか。奇遇なものだ」ラーガは狼狽えることなく、跪くリューデシアの背中を見据えて応える。「万雷は、万兵を率いる俺を呼ばわる異名の一つだ」
ヒューグを名乗るリューデシアはやおら振り返り、ベルニージュを、そしてラーガを見上げた。
「逃げようなどと考えないでくださいね」とベルニージュは脅しに聞こえないように忠告する。「あなたに会いたがっている人がいるので」
まるでその言葉に合わせたかのように待ち人はやって来た。戦士たちが道を開き、遅れてやって来た二人が現れる。
「何の騒ぎ?」とユカリが不安そうに尋ねる。「あ! アルメノン! 誰が見つけたの?」
「アギノア!」と叫んだのは自称ヒューグだ。「それにユカリも!」
ユカリとアギノアを迎え入れた戦士たちの輪は再び閉じていたが、立ち上がるヒューグを止める者はいなかった。アギノアは視線を泳がせつつリューデシアに抱きしめられるが、直ぐに抱きしめ返す。恋焦がれていた銅像ではないが、元よりそこに宿る何者かがアギノアの探し求めていた相手なのだ。
「ヒューグさん!? ヒューグさんなのですか!? どうして聖女に憑依を? いいえ、そんなことどうだっていいです。私はあなたに会いたくて旅を……、いいえ、あなたと旅をしたくて会いに来たのです!」
ベルニージュの記憶の中のラーガとラーガの魂の半分および男性性で構成されているヒューグが、聖女アルメノンことリューデシアに憑依し、古き時代の巫女アギノアの宿る真珠の棺を抱きしめている。何とも混乱する状況だ。
ベルニージュはモディーハンナの意図を推測する。聖女アルメノンを操るためにヒューグを憑依させ、介していたのではないだろうか、と。
「なあ、ベルニージュ。どうすれば良いと思う?」とラーガが馴れ馴れしく耳打ちをするが、ベルニージュは答えなかった。
ラーガがヒューグを取り戻したなら、アギノアはどう思い、どう想うだろうか。