幼くして救済機構に攫われ、護女シャリューレとして護女アルメノンと出会った頃、その幼気で優しくて少し甘えん坊な少女が遠い異国の王女だなどとソラマリアは知る由もなかった。何せ幼い頃に攫われたリューデシア自身もほとんど記憶には無かったのだ。そしてソラマリアが焚書官となり、ライゼン大王国で捕らわれ、処刑台を登る、その日まで終ぞ知ることもなかった。
後にヴェガネラ王妃に与えられた密命を携え、シグニカに潜入し、攫われたという王女の行方を調査した際にようやく古き友こそがその王女だと知ったのだった。
リューデシア王女に憑依するヒューグの尋問は終わり、ラーガとレモニカがその処遇について話し合っている。ユカリとベルニージュ、アギノアもまたその話し合いに意見を述べている。ソラマリアはあの頃と微塵も変わらない姿のリューデシアの横顔を見つめて、過去を思い返していた。火影に縁取られる稜線はリューデシアと別れた洞窟で見たものと寸分違わない。少し年上だったはずの少女の姿は今や遥か年下に見える。
自分が王女などとは知る由もないはずの護女アルメノンに古巣へ帰還したソラマリアが真名と真実を教えた際、友人は少しも驚かなかった。それどころか、その可能性に気づいていたのだという。何がきっかけで疑いを持ったのか教えてはもらえなかったが、護女の集団脱走計画に全くの異議無く賛同した辺り、その確信は強いようだ、と当時のソラマリアは判断した。救済機構に育てられ、実質的に故郷のように感じているはずのシグニカを離れたくはないかもしれないと予期していたのだが、杞憂に終わった、はずだった。
しかし最終的には拒まれ、護女アルメノンは救済機構に戻った、遺言めいた言葉を残して。
「リューデシアはたくさんの人々に見守られて死んだ」とラーガが呟き、ソラマリアは心臓を掴まれたような衝撃と共に過去から戻ってくる。ラーガの視線がその言葉と同じようにソラマリアを突き刺していた。「シャリューレ。お前がお袋の任務を果たせずに戻った時、そう言っていたそうだな」
「リューデシアにそう言えと言われたとも言いました」ソラマリアは努めて淡々と答えた。
「非難しているわけじゃない。我が妹のその体、やはり既に死んでいるのではないか? 聖女とは傀儡なのではないか? 屍使いが救済機構に協力しているという話は聞かないが、あり得ない話ではない。クヴラフワ衝突の際、多くが捕虜として囚われたと聞く。本物のリューデシアの魂も既に失われているのではないか?」
いつの間にかフシュネアルテとイシュロッテ、更に屍使いの面々が集まりに加わっており、その場の視線を集めた。
「少なくとも我が一族特有の魔術の形跡は見られません」と代表たるフシュネアルテは答える。「魂に関しては何とも申し上げかねますが」
今度は座り込んだヒューグが皆の視線を集める。しかし誰の視線も受け止めず、魂の虜囚は宙を見つめて答える。
「私にも分からない。魂の数など数えたことがないからな」
「それもこれもヒューグさんを解放すれば分かります」ユカリが各々の同意を求めるように言う。「リューデシア王女の体からヒューグさんを解放する点については誰も異論ないんですよね?」
全員が頷き、今度はベルニージュに視線が集まる。
「いや、正直なところ魔術の未知の組み合わせだから、できるかどうか、すぐには結論を出せないよ」とベルニージュは白状した。「記憶の抽出はできるけど、それがラーガ殿下の魂の半分とどう結びついているのか分からないし、リューデシア王女の魂とも結びついているかも」
当事者の割にベルニージュは他人事のように答える。この可笑しな状況を楽しんでさえいるように見えた。
「私は王子様になるつもりなどないからな」とヒューグが訴える。
「馬鹿め。それを後回しにするために一旦お前を剥がすと言っているのだ」とラーガが嘲る。「そもそもお前に決定権などない。決めるのは俺だ」
馬鹿と罵った相手は自身の半身だ、と指摘したかったがソラマリアは我慢した。
「馬鹿はお前だ」とヒューグが言い返す。「お前に決定権があるのならその魂の半分である私にも決定権があるということだ」
「王子という重責から逃れたお前に何の権利があるというのだ、卑怯者めが」
「何が重責だ。権力をかさに着て侵奪するばかりのお前が何の責任を果たしているというのだ。まるで忌々しい親父のようだ」
最初に噴き出したのはベルニージュだった。「一人で、喧嘩、してる!」と息も絶え絶えに笑い出す。
他の面々も控えめに笑みを零し、ばつの悪くなったらしい一人の王子は押し黙って睨み合う。
「とにかくお姉さまは解放してもらわなくては困ります。亡くなっていたとしても同じです」とレモニカが訴え、ソラマリアも同意を示すように頷く。
「ヴェガネラ妃殿下に与えられた私の使命でもあります」
ソラマリアとしては何気ない一言だったが、レモニカが一瞬視線を寄越し、小さな溜息をついたのを見逃さなかった。呆れられたらしい。
ヒューグの方は少ししおらしい態度を見せる。
「確かに。記憶にはないが、妹の体を乗っ取り続けるわけにはいかない。何か代わりの体は無いか? 像でも良いのだが」
「彫る者がいる。早速試してみよう」とベルニージュが楽しそうに言った。
質の悪い石材に文句を言いながらも彫刻家の使い魔は最高の仕事をしてみせる。ヒューグのために彫られた石像は以前の青銅像に似せて作られた。魂が乗り移る前から、今にも呼吸し、鼓動を打ち始めそうなほど真に迫っている。浮き出た血管から微細な産毛に毛穴までもが石の形を得ていた。
ベルニージュがこれから試すのは記憶を抽出する魔術だ。つまりそれはベルニージュのラーガに関する記憶なのだが、ラーガの男性性ごとベルニージュの元へ戻り、その体を乗っ取られては困るので、まずは像に移すのだった。
相変わらず篝火のそばで、煌々とした明かりに照らされながらベルニージュの魔術はつつがなく実行される。それは全ての人間の魂の核に刻まれた、起源と齢を同じくする言葉であり、現に見出されることのない空っぽの言葉だ。古に接する記憶の海風の堂々たる音色だ。
設置された像の隣にはヒューグが、ヒューグの背後では念のためにソラマリアが立ち、ベルニージュの唱えた呪文に呼応してヒューグことリューデシアの体から記憶の蝶が羽ばたき出る。その記憶の蝶は篝火よりも紅く輝きながら像へと宿る。皆が押し黙り、像とリューデシアの体を見つめている。海風の囁きと篝火の呟きと固唾を呑み込む音だけが聞こえた。
「どうなの?」とベルニージュが静寂を破り、像とリューデシアの体に答えを急かす。
先に動き出したのはリューデシアの体だった。目をぱちくりとさせ、場違いな舞台に引きずり出された迷子のようにおずおずと周囲を見渡す。
「一体ここは……。あなたたちは……」
「リューデシア」とソラマリアは声をかける。「シャリューレだ。分かるか?」
「ああ、シャリューレ……」振り返ったリューデシアは安心したように微笑む。「久しぶり、なの? 少し老けたように見えるけど」
リューデシアだ、という確信がソラマリアの中にあった。自分を支配していた聖女アルメノンとは違う古い友だ。
その時、ヒューグを宿したらしい像も動き出し、リューデシアに覆いかぶさるように飛び掛かってきた。まるで稽古を繰り返してきて自信を深め、本番に臨んだかのように、何の迷いも見られない。しかし間に割り込んだソラマリアに容易く突き飛ばされた。
何のつもりだとソラマリアが問う前に像が叫ぶ。「そいつには封印が貼ってあるんだ!」
首筋に熱い痛みが走り、ソラマリアの意識が途切れる。
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