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#恋愛
十色
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#消失
有栖川 郁太郎
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明日の教室には、桜庭ひよりの机がなかった。
最初に気づいたのは僕だった。
朝のホームルーム前。
いつものように一番後ろの席で、存在感を消す練習みたいにスマホを眺めていたときだ。
窓際から二列目。
前から三番目。
そこにあるはずの机が、なかった。
昨日まで、たしかにそこには彼女がいた。
桜庭ひより。
誰にでも笑いかけて、誰からも好かれていて、先生にも頼られて、クラスの中心にいるような人。
僕とは、ほとんど話したことがない。
同じ教室にいる。
同じ時間割で授業を受けている。
たまにプリントを後ろへ回すとき、指先が一瞬近づく。
その程度の関係だった。
なのに僕は、その空白を見た瞬間、息ができなくなった。
「なあ」
隣の席の田崎に声をかけた。
自分から人に話しかけるなんて、たぶん一週間ぶりだった。
「桜庭さんの席、どこいった?」
田崎は僕の顔を見た。
それから、空いているはずの場所を見て、首をかしげた。
「桜庭って誰?」
その瞬間、教室中の音が遠くなった。
笑い声。
椅子を引く音。
誰かが机を叩く音。
黒板に日付を書く先生のチョークの音。
全部、水の中みたいにぼやけた。
「いや、桜庭ひより。うちのクラスの」
「そんなやついたっけ」
田崎は笑った。
悪気のない、いつもの笑い方だった。
僕は立ち上がった。
いや、立ち上がったつもりだった。
実際には、膝が机にぶつかって、椅子が後ろに倒れただけだった。
誰も彼女を知らなかった。
昨日、彼女が笑っていたことも。
昼休みに購買の焼きそばパンを買いそびれて、友達にからかわれていたことも。
放課後、昇降口で雨を見上げながら、少しだけ寂しそうな顔をしていたことも。
全部、なかったことになっていた。
そのとき、僕の机の中でスマホが震えた。
画面を見る。
差出人は、登録していない番号だった。
本文は一行だけ。
「明日の私は、まだいる?」
そこで目が覚めた。
心臓が痛いくらい鳴っていた。
カーテンの隙間から朝の光が入っている。
スマホのアラームが鳴っている。
いつもの朝だった。
夢だ。
そう思った。
そう思おうとした。
でも、制服に着替えて、顔を洗って、母さんに「寝ぐせ」と言われても、あの教室の空白だけが頭から離れなかった。
桜庭ひより。
僕は名前を口の中で転がした。
まるで、忘れないように。
学校に着いたのは、いつもより五分早かった。
昇降口で靴を履き替えるとき、下駄箱の列を見た。
一年二組、桜庭ひより。
ちゃんとあった。
それだけで、少しだけ息が戻った。
僕は廊下を歩いた。
朝の学校は、やたらと音が多い。
部活の朝練帰りの声。
階段を駆け上がる足音。
誰かが笑いながら「小テストやばい」と叫ぶ声。
全部、昨日と同じだった。
教室の扉の前で、僕は一度立ち止まった。
大丈夫だ。
ただの夢だ。
そう言い聞かせて、扉を開けた。
窓際から二列目。
前から三番目。
そこに彼女はいた。
桜庭ひよりは、昨日と同じように笑っていた。
友達に囲まれて、片手で髪を押さえながら、「だから違うって」と笑っている。
胸の奥に詰まっていたものが、一気にほどけた。
よかった。
本当に、よかった。
そう思った瞬間、彼女がふとこちらを見た。
目が合った。
ほんの一秒。
僕はすぐに視線をそらした。
別にやましいことなんてないのに、なぜか見てはいけないものを見たような気がした。
自分の席に座って、鞄から教科書を出す。
だけど、指が少し震えていた。
夢の中の田崎の声が、まだ耳に残っている。
桜庭って誰?
そんなはずない。
桜庭さんはいる。
今も、そこにいる。
でも、そう思えば思うほど、逆に怖くなった。
「ねえ」
声がした。
顔を上げると、桜庭ひよりが僕の机の横に立っていた。
近くで見ると、思っていたより背が低い。
笑うと明るく見えるのに、目の奥だけが少し疲れているように見えた。
「君、さっき私のこと見てたよね?」
心臓が跳ねた。
「いや、その」
言葉が出てこない。
クラスの中心にいる女子と、ほとんど空気みたいな僕。
そんな二人が話しているだけで、周りの何人かがこっちを見る。
「なに、知り合い?」
彼女の友達が冷やかすように言った。
桜庭さんは振り返って、いつもの笑顔で言う。
「違う違う。ちょっと気になっただけ」
それから、もう一度僕を見た。
「私の顔、なんかついてた?」
「……ついてない」
「じゃあ、なんで?」
言えるわけがなかった。
明日の教室で、君の机が消えていた。
誰も君のことを覚えていなかった。
君から、明日の私はまだいるかってメッセージが届いた。
そんなことを言えるはずがない。
僕は、必死に普通の答えを探した。
「夢を」
口にしてから、しまったと思った。
「夢?」
桜庭さんが首をかしげる。
「夢に、出てきたから」
一瞬、教室の空気が止まった気がした。
田崎が隣で小さく吹き出す。
「なにそれ。告白?」
「違う」
即答したせいで、余計に変な感じになった。
桜庭さんは少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
でもその笑い方は、友達に見せていたものとは違った。
ほんの少しだけ、崩れた笑顔だった。
「そっか」
彼女はそう言って、僕の机に手を置いた。
白い指先が、机の端を軽く叩く。
一回。
二回。
「じゃあ、どんな夢だった?」
聞き方が、妙だった。
ただの雑談じゃない。
まるで、答えを知っているみたいな聞き方だった。
僕は喉の奥が乾くのを感じた。
「……桜庭さんが、いなくなる夢」
口にした瞬間、彼女の笑顔が止まった。
本当に一瞬だけ。
でも、たしかに止まった。
すぐに彼女は笑い直した。
「なにそれ。怖いじゃん」
そう言って、友達の方へ戻っていく。
背中はいつも通りだった。
明るくて、軽くて、誰の目にも自然に見える背中。
だけど僕には見えてしまった。
彼女が振り返る直前、制服の袖口をぎゅっと握っていたこと。
そして。
昼休み。
購買に走った田崎が、教室に戻ってきて叫んだ。
「やべえ、焼きそばパン売り切れてた!」
その声に、桜庭さんの友達が笑った。
「ひよりもさっき買いそびれてたよね」
僕は箸を持ったまま、動けなくなった。
夢と同じだった。
昨日のことじゃない。
夢で見た“今日”が、今、起きている。
桜庭さんは笑っていた。
「いいのいいの。ダイエットだし」
その言葉に、友達がまた笑う。
僕だけが笑えなかった。
彼女は一瞬だけ、窓の外を見た。
外は晴れていた。
朝の天気予報では、夕方から雨だと言っていた。
僕はその横顔を見ながら、思った。
このままだと、明日。
彼女はいなくなる。
そしてたぶん。
僕以外、誰もそれに気づかない。
⸻
*桜庭ひより
今日も、ちゃんと笑えた。
朝から少しだけ危なかったけど、たぶん大丈夫。
誰にも気づかれていない。
友達も、先生も、クラスのみんなも、いつも通り私を見て、いつも通り私に笑ってくれた。
だから、私はまだ大丈夫。
そう思っていた。
でも一人だけ、変な人がいた。
一番後ろの席の、名前もちゃんと覚えていなかった男の子。
彼は私を見て、泣きそうな顔をしていた。
まるで。
私がここからいなくなることを、もう知っているみたいに。
コメント
1件
うわっ……読み終わってからずっと胸がざわついてる……。 「明日、君はいなかった」ってタイトルがもう刺さる。 主人公が夢で見た空白が、現実で少しずつ重なっていく感じ、すごく怖かった。 とくに焼きそばパンの話まで夢と同じになるシーン、心臓止まるかと思った……。 桜庭さんの袖口をぎゅっと握る描写とか、「まだいる?」のメッセージの一文も、なにもかもが不穏で美しかった。 ふたりの距離がこれからどうなるのか、続きがすごく気になります😢🌙