テラーノベル
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夕方から雨が降る。
朝の天気予報はそう言っていた。
夢の中でも、たしか雨が降っていた。
放課後の昇降口。
濡れた床。
傘立てに残された、誰のものか分からないビニール傘。
そして、雨を見上げる桜庭ひよりの横顔。
少しだけ寂しそうな顔。
昨日までは、そんなものを見ても気づかなかったと思う。
たぶん、僕はいつもそうだった。
教室にいても、誰かをちゃんと見ていない。
誰かに見られないようにしているうちに、僕の方も誰かを見ないようになっていた。
だから桜庭さんが笑っていることは知っていたけど、笑っていないときの顔なんて知らなかった。
昼休みのあと、授業中も僕はずっと彼女の背中を見ていた。
窓際から二列目、前から三番目。
そこに桜庭ひよりはいる。
いる。
いるのに、いつ消えるか分からない。
そんなことを考えていたら、英語の本文なんて一行も頭に入らなかった。
「じゃあ次、後ろから三番目。読んで」
先生に指されて、僕は慌てて立ち上がった。
どこを読むのか分からない。
教室が少しざわつく。
田崎が小声でページ数を教えてくれたけど、それでも行が分からなかった。
「えっと……」
声が喉で引っかかる。
そのとき、前の方から小さな声がした。
「二段落目」
桜庭さんだった。
振り向いてはいない。
ただ、少しだけ顔を横に向けて、僕に聞こえるくらいの声で教えてくれた。
僕はそこを読んだ。
発音はひどかったと思う。
読み終えて座ると、田崎が肘で僕をつついた。
「おまえ、今日どうしたんだよ」
「別に」
「ずっと桜庭見てるし」
心臓が嫌な音を立てた。
「見てない」
「いや、めっちゃ見てる」
「見てないって」
声が少し強くなった。
田崎は「はいはい」と笑って前を向いた。
その笑い方は、悪意のあるものじゃない。
でも、僕にはそれだけで十分だった。
桜庭さんに近づけば、誰かに見られる。
誰かに見られれば、何かを言われる。
何かを言われれば、僕はきっと逃げたくなる。
いつもそうだ。
波風を立てない。
目立たない。
誰にも期待しない。
誰にも期待されない。
それが一番楽だった。
でも、彼女が明日いなくなるかもしれないと知ってしまった今、その楽さが急に情けなく思えた。
六時間目が終わるころ、窓の外が暗くなった。
雨は、まだ降っていない。
けれど空は重く、雲は低かった。
ホームルームが終わると、教室は一気に騒がしくなった。
部活へ向かう人。
#恋愛
十色
247
20
#消失
有栖川 郁太郎
63
45
友達と寄り道の相談をする人。
小テストの愚痴を言う人。
桜庭さんは、いつも通り友達に囲まれていた。
「ひより、今日カラオケ行かない?」
「ごめん、今日は無理かも」
「えー、また?」
「またってなに、たまたまだよ」
彼女は笑っていた。
でも僕は、その笑顔の端がほんの少しだけ固いことに気づいてしまった。
「じゃあ明日は?」
「明日……」
桜庭さんの声が、そこで少しだけ止まった。
「明日も、ちょっと分かんない」
「最近つれなーい」
「そんなことないって」
彼女は笑う。
友達も笑う。
何も変じゃない。
誰が見ても、普通の放課後だった。
なのに僕だけが、その普通の中に小さなひびを見つけてしまう。
桜庭さんは鞄を持って、教室を出ていった。
僕は少し遅れて席を立った。
田崎が言う。
「お、ストーカー?」
「違う」
「冗談だって。そんなマジになるなよ」
冗談。
たぶん、ほとんどのことは冗談で済む。
でも、済まないものもある。
僕は答えずに教室を出た。
廊下の先に、桜庭さんの背中が見えた。
彼女は昇降口へ向かっていない。
階段を上っていた。
屋上へ続く階段ではない。
三階の、特別教室が並ぶ方だった。
放課後の三階は、人が少ない。
美術室。
音楽室。
使われていない教室。
古い掲示物が貼られた廊下。
僕は足音を殺すようにして、距離を取ってついていった。
本当にストーカーみたいだと思った。
嫌になった。
でも、止まれなかった。
桜庭さんは、空き教室の前で立ち止まった。
引き戸を開ける。
中に入る。
僕は廊下に残ったまま、少しだけ開いた戸の隙間を見た。
夕方の光が、机の上に斜めに落ちている。
使われていない教室には、誰かが忘れたみたいに机と椅子が積まれていた。
桜庭さんは窓際に立っていた。
それから、鞄を床に置いて、ゆっくりしゃがみ込んだ。
肩が震えていた。
笑っていなかった。
僕は息を止めた。
見てはいけないものを見た。
そう思った。
けれど、目を離せなかった。
桜庭さんは声を殺して泣いていた。
教室であれだけ笑っていた人が。
みんなに囲まれていた人が。
何でもないみたいな顔で「大丈夫」と言っていた人が。
誰もいない教室で、一人で泣いていた。
胸の奥が痛くなった。
声をかけなきゃ。
そう思った。
今しかない。
たぶん、今、声をかけなきゃいけない。
でも僕の足は動かなかった。
何て言えばいい。
大丈夫?
そんなの、いかにも軽い。
泣いてるの?
見れば分かる。
昨日、君が消える夢を見たんだ。
そんなの、絶対に言えない。
僕が迷っているうちに、桜庭さんは制服の袖で目元を拭った。
そして鞄からスマホを出した。
少しだけ画面を見て、何かを打つ。
指が止まる。
消す。
また打つ。
また消す。
その横顔は、教室で見せる桜庭ひよりとは別人みたいだった。
そのとき、僕のスマホが震えた。
慌てて取り出す。
画面には、通知が一つ。
差出人は、登録していない番号。
夢で見た番号と同じかどうかなんて、覚えていない。
でも、本文を見た瞬間、背中が冷たくなった。
「今、声をかけてくれたらよかったのに」
僕は顔を上げた。
教室の中の桜庭さんは、まだスマホを見ていた。
でも、こちらを見てはいない。
僕は廊下に立ったまま、動けなかった。
まさか。
今のメッセージは、桜庭さんからなのか。
でも彼女は僕の連絡先なんて知らない。
僕だって彼女の番号を知らない。
じゃあ、誰が送ってきた。
何のために。
画面の文字が、じわじわと滲んで見えた。
今、声をかけてくれたらよかったのに。
過去形だった。
まるで、もう手遅れだと言われているみたいだった。
僕はようやく、教室の戸に手をかけた。
でもその瞬間、桜庭さんが立ち上がった。
彼女は深く息を吸って、いつもの顔を作った。
泣いていた跡を、笑顔の下に隠すみたいに。
そして、引き戸を開けた。
僕と目が合った。
「あれ」
桜庭さんは少し驚いた顔をした。
「こんなところで何してるの?」
僕は答えられなかった。
彼女は僕の手元のスマホを見た。
それから、何もなかったみたいに笑った。
「もしかして、また夢?」
冗談みたいな声だった。
でも目は笑っていなかった。
「……桜庭さん」
名前を呼ぶだけで、喉が痛かった。
彼女は一瞬だけ、まばたきをした。
たぶん僕が名前を呼んだからだ。
「なに?」
聞かれて、僕はまた黙った。
言葉は、頭の中にたくさんあった。
消えないでほしい。
一人で泣かないでほしい。
何があったのか教えてほしい。
僕なんかに言われたくないだろうけど、大丈夫なふりをしないでほしい。
でも、どれも口にできなかった。
結局、僕が言えたのは、ひどく間抜けな一言だった。
「雨、降りそうだから」
桜庭さんは、きょとんとした。
「……うん」
「傘、ある?」
彼女は少しだけ笑った。
今度の笑顔は、教室で見せていたものより、ずっと小さかった。
「あるよ」
「そっか」
会話が終わった。
終わってしまった。
桜庭さんは僕の横を通り過ぎる。
そのとき、ほんの少しだけ、彼女の声が聞こえた。
「でも、ありがと」
僕は振り返った。
彼女はもう廊下の向こうを歩いていた。
窓の外で、雨が降り始めていた。
夢と同じだ。
僕はスマホを握りしめた。
画面にはまだ、あのメッセージが残っている。
今、声をかけてくれたらよかったのに。
僕は遅かった。
また、遅かった。
だけど。
完全に手遅れになる前に、まだ何かできるはずだ。
そう思いたかった。
その夜、布団の中で眠れずにいると、スマホが震えた。
登録していない番号。
本文は、たった一行。
「明日、私の名前を呼んで」
⸻
*桜庭ひより
泣くなら、誰もいない場所がいい。
誰かに見られたら、心配される。
心配されたら、説明しなきゃいけない。
説明したら、きっと面倒くさい子だと思われる。
だから私は、いつも笑う。
笑っていれば、みんな安心する。
明るいひより。
元気なひより。
何を言っても怒らないひより。
そういう私なら、ここにいても許される気がする。
でも今日、あの男の子が私を見ていた。
一番後ろの席の、静かな男の子。
名前はまだ、思い出せない。
でも、彼は私の名前を呼んだ。
桜庭さん、と。
たったそれだけなのに。
私は少しだけ、消えずに済んだ気がした。
コメント
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うわっ第2話、マジで心臓ギュッてなった😭💦 教室で笑顔の裏側、誰もいない教室で声♡♡♡て泣くひよりさんの姿が切なすぎる…それを見てしまった主人公の動けなさもすごくリアルだった。ラストの「明日、私の名前を呼んで」ってメッセージ、希望なのか絶望の前触れなのか分からなくて続き気になりすぎる!! 二人の距離、これからどうなっちゃうんだろ…🌸